忠告
なぜ“力”は、彼の存在を仄めかしたのか。
なぜ?
興味をそそる疑問だった。
私が彼に対して示した嫉妬、八つ当たり。
そして、誰かと自分を比較する癖。
私がアンドレアとして生きていく際、それらが悪影響を及ぼすことになると忠告したいのだろうか……。
身についた習慣は、そう簡単に封印できない。
無意識に、私がアンドレアの人生に嫉妬したら? ローレンスに妬みを感じて反感を抱いたら?
この世界で暮らすのに慣れてくれば、気が緩んで“沙希”の性格や考え方が強く出てしまう可能性がある。
もしかしたら、それが周囲の人間関係を掻き乱したり、婚約破棄を困難にしたり、新たな波紋を作り出してしまうのかもしれないのだ。
(そう指摘したいなら、わざわざ“彼”のことを持ち出さず、直接そう言ってくれれば良いのに……!)
私だって、ただでさえ謎の多いこの状況を、“沙希”のせいで余計に複雑化させるつもりはないのだ。
レンの魔法のような“力”は、優しく聡明なものだと感じられる。私のことさえよく理解している、奥が深い力だ。
だが、ピンポイントで答えを教えてはくれないらしい。
謎を解くのは楽しいが、今回の疑問はあまりにも漠然としていてハッキリとした答えは見当もつかない。
それがわかると私の諦めは早かった。
私は考えることをさっさと放棄し、レンが何か説明してくれるのを待つことにした。
馬車の揺れは変わらず心地良く、レンと一緒にいれば自分が安全だと感じられる。リラックスした私は、素直に忠告を聞く柔軟さと心の余裕を充分に持っていた。
レンは私を見つめながら考え込んでいる。
あらゆる物事を見通す彼の眼差しに私は気恥ずかしさを感じ始め、つい視線を逸らして馬車の窓から外を眺めた。
レンが唐突に口を開いたのは、それから数秒後のことだった。
「沙希……気になったんだが、その“彼”は本当に疲れた様子を見せないのか?」
「え?」
そ、そんなところが気になります?
やや面食らいながらも、私は律儀に答えを返した。
「はい、そうなんです。いつ見ても、彼は元気ですよ。こう……力に満ち溢れていて……エネルギーが切れることのないって言うんでしょうか……。まさに……疲れ知らずって感じなんです」
「……本当に?」
その納得していないような意味ありげな言い方に、私は即答するのを控えて口を閉じた。
レンへの礼儀として改めて記憶を探ると、それほど努力しなくても“彼”の声や表情が次々に浮かぶ。
(本当に? って、もちろんそうよ。だって、私は疲労困憊でも、彼は溌剌としていた。私なんて、疲れ切って肌はカサカサ、髪はパサパサなのよ! でも、彼はいつも輝いているの……。彼が私みたいに疲れているところなんて、一度も見たことな……)
その瞬間、思い出した光景に私は気まずくなった。
頭に浮かんでいる彼の表情には明らかに疲れが見え、彼の声には元気がない。同僚がかけた心配する声に「疲れていない」と微笑みを返した彼だが、きっとそれは気を遣わせないための嘘だ。
「あ……すみません……。思い出したんですが……彼が疲れている姿を見たことがあったみたい……です。……声に力は入っていないし、大丈夫なフリをしていても元気がないのは確かでした……」
しかも、それは1度どころの話ではなかった。
激務の日々が続く繁忙期には、普通に見られた姿だ。
考えてみれば、不思議なことではない。むしろ、あの忙しい日々の中、ろくに休息も取らずいつも元気いっぱいという方が不自然だった。
たとえ超人だって無理。誰にとっても、心身を休ませてあげる時間が必要なのは明白だ。
(ちょ、ちょっと待って……。じゃぁ、いったいどこから『いつも元気』だの『疲れ知らず』だの出てきたの? 彼だって疲れることがあるのは知っていた。当たり前のことじゃないの。……それを全部、私は今まで無視していたというの?)
私がよく考えもせずに繰り返していた言葉は、あまりにもいい加減なものだった。
レンは「やはり」と言うように頷いて、もうひとつの質問をした。
「では、君がさっき何度も言っていた『彼はみんなから好かれている』の『みんな』というのは本当かな? それは正確な言葉だろうか?」
「え……ええ、もちろん……」
そう言いながらも、私の声は弱々しい。
既に『みんな』というのは、誇張だと察していた。
彼を取り巻く人々は、みな友好的に見えた。
信頼や敬意を示す上司や同僚、好意の眼差しを向ける女性たち、キラキラとした憧れの視線を送る後輩たち。
だが、その中にもピリリとした敵意は混ざっている。彼をライバル視する同僚、向けられる嫉妬の目、頻繁になされる陰口。妬みにさいなまれていた私も、その中に含まれるだろう。
う〜ん……と私は眉をしかめて俯いた。
頭の中では、こだまするように昨日のアメリアの言葉が響いている。
“……ローレンスさまご自身を見ていただきたいのです。彼は『完璧なご令息』でも『甘いマスクの貴公子』でもありません。……誰かが愛情を込めて『愛しの坊や』と呼ぶような……そんな心のある一人の人間なのです”
……そうアメリアは言っていた。
今ここで彼女の言い方を借りるなら、「彼自身を見ていただきたいのです。彼は『エース』でも『全てに恵まれた完璧な青年』でもありません。……時には疲れ果て、時には陰口だって叩かれる……悩みを持つ普通の人間なのです」といったところか……。
この言葉に、自分の未熟さを思い知る。
私は“彼”自身を見てはいなかった。
正確には、見たいものだけを見て、他は全て切り捨てた——見て見ぬふりをした——。
このエースと呼ばれる凛々しい青年は、私の不満のはけ口として格好の的だった。
彼の活躍は私の惨めな気分をより一層強めたし、彼は私に強烈な憧れを抱かせると同時に、心底彼を妬ましくも思わせた。比較すると、彼と私の違いは歴然だった。どちらが優れているか、成功しているかは言うまでもない。
ただ、彼に八つ当たりをするにあたっては、もう一工夫が必要だった。彼には、完璧かつ特別な人でいてもらう必要があったのだ。
つまり、「彼も大変よね」や「疲れているようだけど大丈夫かしら……」なんて理解や思いやりを感じていては、八つ当たりなんて出来ないとわかっていた。
だから、決して疲れを見せず、いつも元気に輝き、みんなから愛されている人だという人物像を彼に押し付けた。そのイメージに合うもの以外は見ないことにして……。
いつも。みんな。
それは、いとも簡単に一括りにしてしまえる便利な言葉だ。そして、都合の良い言葉でもある。
たが実際には、「いつも」は「常に」とは限らないし、「みんな」は本当に「全員」というわけでもない。
私には表面上しか見えていない。見方も偏っている。
そう冷静に理解しているつもりだったが、私の人を見る目がここまでお粗末だとは思わなかった。
私がゆっくり顔を上げると、レンが思いやり深くこちらを見つめていた。その表情から、私が今気づいた事柄を彼も悟っているのだと感じた。
私は恥ずかしさと居心地の悪さを味わったが、ある閃きを受けて顔がパッと輝いた。
「わかりました! 何を伝えたいのか、わかりました!」




