気になる“彼”
「彼は……」
そこですぐ言葉に詰まり、私は口を閉じた。
話すと言ってしまったものの、これが思ったよりも難しい。私自身、これまで“彼”について特に考えたことがないのだ。ふと彼を思い出すことは多くても、羨望か嫉妬を感じるだけで、深く考えることはなかった。
今、私の記憶に現れている彼は、書類を真剣に読み込んでいる時の姿だ。私の視線は彼の凛々しい目元に向かい、心にはこれまで感じたことのない何かが浮かんだ。
この感覚はなんなんだろう?
違う世界に来たせいで、センチメンタルにでもなっているのだろうか?
レンの目が、まっすぐ私を見つめている。
急かすでもなく、圧をかけるのでもなく、いつもの優しい目をして、私の考えがまとまるのを静かに待ってくれていた。
彼の曇りのない眼差しを前にして、偽りを口にする者などいないと思った。
それならば、私だって当然『彼はスカした感じのイヤな奴』だなんて台詞を言えるはずもない。この言葉が私の妬みから出たものだということはわかっていた。ただの八つ当たりであって、事実を表してはいない……。
(どう説明したら良いんだろう……。ここでレンが求めているのは、何よりも正直さだ……)
事実のみなら、“彼”は私の同僚だ。
そして、その彼は大きな企画がある度にリーダーに抜擢され、重要なプレゼンをいつも任され、周囲からの評価はすこぶる高く、いわゆるエースと呼ばれ、みんなから好かれている……。
さて、これで傲慢だったり、優越感に浸っているような人物であれば、まだ「嫌な奴!」だと言えそうなものだが、実際の彼はそれとは程遠い。
私がどれだけ「いい気なものよね」と嫌味を込めて思おうが、当の彼は全くそんな気になどなっていないのだ。
私が子供じみた嫉妬を捨て去れば、ありのままが見えてくる。職場や食事会、どんな場面を思い出しても、彼から受ける印象は穏やかで、どこまでも“普通”だった。
エースという言葉にも、周囲の評価にも、彼は決して振り回されていない。
(そんな彼を悪く言うのはフェアじゃないわ)
私は溜息をついてから、ゆっくりと口を開く。
そして、この世界では通じないであろう「プレゼン」や「エース」の意味を説明しながら、“彼”についての事実を話し始めた。
レンは相槌を打ちながら、私のつたない話にも忍耐強く耳を傾けてくれた。
面白いことに、「リーダー」という言葉は説明せずとも意味が通じた。思っていた以上に、この世界で使われている言葉は、私が日本で話していたものと共通している。
特に気づかなかっただけで、昨日からの会話の中にも、ごく当たり前に英語や和製英語が出てきていたのかもしれない。
……なんて興味深いんだろう!
未知の世界でありながら、馴染み深いものが多く存在している。
「その彼の……何が気になっているのかな? なぜ彼は、君の心に引っかかっているのだろう?」
此処と『元いた世界』の比較に気を取られていた私は、レンの問いかけを聞いてハッと我に返った。
「そ、そこですよね……。それは……それは……きっと彼が……。彼が……『私の理想』を丸ごと手に入れたような人だからです」
私は目を閉じ、自分の気持ちを探りながら言葉を絞り出した。
「だって彼は……とてつもなく恵まれている人に見えるんです。なんというか……まるで、天からありとあらゆる才能を授かった人だと思えるんです。容姿にも恵まれているし、頭も良い。仕事だってできる。そのうえ人柄だって良さそうですし……みんなから愛される人だわ」
私は目を開くと、「それに……」と言いながら腕を組んだ。
「彼はいつもエネルギーに満ち溢れています。私よりもずっと忙しくて、休む暇なんてほとんどないはずなのに、疲れた様子を全く見せないんですよ! どうしてそんな風になれるんでしょう? 私は消耗しすぎて、いつもフラフラなのに……。彼はますます輝いていく一方、私はずっと日陰にいるままだと感じて……。はっきり言って彼が羨ましいし、心の奥底では妬ましいんです」
その先を、私は呟くように続けた。
「わかっています……。私は表面上しか見えていないし、その見方はかなり偏っているかもしれません。それに、彼をよく知るほどの付き合いもないので、どんな人なのか中身はわかりません……。でも、少なくとも目に見える部分では、私に強烈な憧れと嫉妬を抱かせる人なんです。だから、それほど関わりもないのに、頻繁に思い出すんです。事あるごとに、自分と彼を比較していましたから……」
レンの瞳は優しく私を見つめている。
そこに非難めいた色がないことに安心して、私は落ち着いた声で言った。
「こうなったからには認めます。彼に対していつも、『嫌な奴』だの『いい気になってる』だの、意地の悪いことを思ってしまっていましたけど、本当はそれが事実だなんて全く思っていないんです。自分の惨めな気分を和らげるために彼に八つ当たりして、それでスッキリしていただけなんです」
そう言い切った後、少しの間を置いて私は疑問を口にした。
「……このことに気づかせたかったんでしょうか? だから“力”は、彼の存在をあなたに教えたんですか?」
レンは黙ったまま、何か考え込む様子を見せた。
それにつられて、私も同じように考え始める。
(でも、どうしてわざわざ、こんなことに気づかせる必要があるのかしらね……。それほど大したことに感じないけど……。ただ、絶対に何か意味はあるはずでしょう? まさか私の嫉妬や八つ当たりが、この先、何か問題や障害になるとでもいうの?)
答えを探すように、様々な考えが頭の中を駆け巡った。




