時間
「気がかり……私がいた世界の……ですか?」
レンはいたって真剣な表情だが、私の方はきっと呆けた顔をしているに違いない。
いまや私の関心は、完全に「この世界」へ向けられていた。気になることも、知りたいことも、興味を惹かれるものも、全てがこの世界にまつわるもので、“沙希の生活”はいつのまにか遥か彼方——エジャートン夫人との嫌な記憶よりも更に後ろの方——へと追いやられている。
思わず「そんなこと、もういいんです」と言ってしまいそうになったが、レンのまっすぐな眼差しを前にして、そんな台詞を口に出せる気はしなかった。まるで“沙希の人生”なんてどうでもよくなっているような姿を、彼に見せたくはない。
もっとも、レンには既に悟られているのかもしれない。
彼が今、あえて「私のいた世界」を優先したのには理由がある気がした。やんわりと“君自身の人生を放り出さないように“と伝えているのだ……。
気乗りしないものの、私はそんな素振りを見せないよう努めて口を開いた。
思い出せないのか、あるいは思い出したくないのか、日本での生活はあまり浮かんでこないが、指摘された“気にかかっていること”については、すぐに思い当たった。
「……そ……うですね。ずっと気になっていたのは、時間のことです。私の世界で……私は明日からまた仕事が始まるんです。あっ! べつに、それまでに帰りたいとかなんて、これっぽっちも、もう全くもって、微塵も思っていないんですが……もし私が会社……仕事場に姿を見せなかったら周りが心配して大ごとになってしまうかと……。誰かに心配をかけるのは避けたいですし……」
レンは「わかった」と言うように頷くと、私に手を差し出した。レンが何をしようとしているのかを察し、私はその手に自分の手を重ねる。
レンの瞳の青色は濃さを増し、彼は何かを確かめるように目を閉じた。
「……君の世界は……私からは静止しているように見える。もちろん時が止まっているわけではないが、非常にゆっくりとした進みだ。……この様子なら……そうだな……たとえこちらで1年を過ごしても、君の世界では1日といったところだろう」
レンの言葉に安堵の溜息をつきながらも、時間の進むスピードがこの2つの世界の間であまりにも違うことに衝撃を受けていた。
レンは目を閉じたまま、こう呟いた。
「それにしても興味深いね。時の流れはこれほど違うのに、時間の概念や枠組みが同じとは……」
「……?」
私が不思議そうな顔をしていると、レンは目を開けて微笑んだ。
「……1年は12ヶ月で365日、1日は24時間、1時間は60分、1分は60秒……そして1週間は7日で、曜日は月曜日、火曜日、水曜日……」
レンの声に私の声が重なる。
「「木曜日、金曜日、土曜日、日曜日」」
言い終わると、私は一息ついてから笑い出した。
「私のいた世界と同じです! なんだか親しみが湧きますね。でも、これで安心しました。私がここに長くいても、元いた世界で問題は起こらないですから……良かったです」
そう言って手を離そうとすると、すかさず引き止めるようにレンが私の手を軽く握った。
「まだ何かあるんじゃないのか? ……“何か“……というより、“誰か”……かな?」
私はギョッとし、反射的にレンの手の中から自分の手を引っ込めた。
彼に心を読まれてしまいそうで、肩に力が入る。
「……だ、誰かって、誰のことですか?」
レンは静かに微笑んだ。
「そんなに警戒しないでくれ。言ったように、私に心は読めないんだよ。だが、私がその時に知るべきことは、必ず“力”が教えてくれる。君には気になっている……心に引っかかっている“誰か”がいるだろう。それが誰なのか、君にはもうわかっているはずだ」
「……確かに……思い当たる人はいますけど……。でも、全く大したことじゃないんです。その人は同僚……つまり仕事仲間で……なんと言えばいいのか……その……彼とは知り合い程度ですし……親友でもなく、特にお世話になっている人でもないです。だから、わざわざ彼のことを話す必要なんて……」
私が見せた抵抗に対して、レンは思いやりの込もった声で優しく言った。
「無理強いするつもりはないよ。ただ、その人の存在を“力”が私に教えてくれたのには、きっと意味がある。そう思ったから言っただけなんだ。もちろん君の心の内を暴きたいわけではないから、話したくないのなら構わない。……違う話題に移ろうか?」
「……」
彼のことを話すのが嫌なのではない。
単純に、どうにも意味があるとは思えないのだ。彼のことが引っかかっているのは事実だが、深い理由はない。
これが、いまだ苦い思い出が残る元彼や、昔は仲良しだったものの今は疎遠な友人、または大失恋の相手とかであるなら、まだ話すことに意味はあるかもしれない。
だが、“彼”は違う。
よく知りもしないし、それほど関わりのない人だ。
でも……些細な話の中にだって、何か役に立つ内容があるのかもしれない。レンの“力”が教えているのなら、その可能性は高い。
私は視線を上げて、きっぱりと言った。
「いえ! お話します。聞いたら拍子抜けされるかもしれないですけど……。でも、ちっぽけなことでも何かの助けになるかもしれないですから……!」
話すと決めた私の頭に、背の高い男性の姿が浮かんだ。
図らずも昨日『元いた世界の仕事』のことを考えた時に、プレゼンする彼についても思い出したばかりだ。
その時、彼の姿はぼんやりとしていて、そのまま私は「見たくない!」と跳ね除けたんだったっけ?
(別世界に来てまで、どうしてあなたのことを思い浮かべなきゃいけないのかしらね……)
私は皮肉まじりに思いながら、徐々にはっきりとしてきた輪郭を見つめた。
みんなから『エース』と呼ばれている、あの彼の姿を——。




