眠り
「あ……あの……桜をありがとう」
今、目の前で起こった美しい現象に夢見心地の状態だったが、私はなんとかそう口にする。
すると、レンは不思議そうな顔をした。
一瞬の沈黙の後、彼は理解したように微笑んだ。
「あぁ……あの花は……さくら……というんだね。とても綺麗な花だ」
え?
私は思わず口をぽかんと開けた。
そうか……! 『この世界』には……桜がないんだ!
あれ……もしかして、春もない……とか……?
でも……見たこともない花を創り出せるなんて……この人はいったい何者……?
まさか、『この世界』ではこれが普通なの?
考え込み始めた私に、レンは少し申し訳なさそうに手を差し出した。
「すまないが、アンドレアのことが心配なんだ。もう一度、手を……」
その言葉に、私は差し出された彼の両手を慌てて握った。
レンは目を閉じた。
私のことを『見ていた』時とは違って、何かを探っている様子だ。
しばらくして彼は目を開き、安堵のため息をついた。
「どうやら……彼女は眠っているようだ。……よかった……無事で……」
「ね、眠っているって……まさか……私の体の中で……?」
落ち着き始めていた心の中を、一気に不安が駆け巡った。
なにしろ私は一人暮らしだ。
アンドレアが目を覚ましても、周りには誰もいない。まぁ……誰かいたところで、この状況を説明できるとは思わないけど……。
彼女はきっと、食べるものにだって困るはず。いちおう食材は冷蔵庫にあるけど、アンドレアは自分で料理なんてしていなさそうだし、そもそもIHコンロは『この世界』にはなさそうだから、使い方もわからないわよね……。
考え始めると、芋づる式に心配事が浮かんだ。
休日が明けて、月曜日になったら仕事はどうするの?
月曜から仕事は山積みだし、午後には大きなプレゼンもあるのに……。
そこまで考えたところで、ある事実に思い当たり、スッと自分の心が冷ややかになるのを感じた。
(でもプレゼンをするのは私じゃないわ。担当するのは、またあいつだった……)
頭にぼんやりと長身の男性が浮かぶ。
見ようと思えば鮮明に浮かぶ彼の顔を、私は「見たくはない!」と跳ね除けた。
そう、あのスカした感じのイヤな奴! みんなから『エース』と呼ばれて、本当にいい気なものよね……!
私と同じように深夜まで残業づけの毎日を過ごしているくせに、いつも平気な顔をしている。
そうよ、残業どころじゃない! 彼は休日返上もしていたわ。そんなことまでしたら、それはそれは上司からの評価も高くなるでしょうよ!
……あれだけ働いて、なぜいつもエネルギッシュでいられるの? まるで疲れを知らないよう……。
彼を見る度、私は不思議でならなかった。
じんわりと妬ましい感情が身を包んだ。
「アンドレアの正確な居場所はわからないが、少なくとも君の体にいるわけではないから安心していい」
たぐり寄せるように、記憶の中にさまよい込んでいた私は、レンの言葉にハッと意識を目の前に引き戻した。
『この世界』にいながら、『元いた世界』の仕事のことを考えている自分に呆れてしまう。
アンドレアは無事だとわかったものの、レンはかなり気難しい顔をしていた。そこに深刻に思い詰めるような険しさを見て取り、私は心配になった。
「あのっ……」
なぜ私がここにいるのかはもちろんだが、私は『この世界』のことが知りたかった。
私がいた世界と似ていると感じる一方で、そんなのは錯覚で、本当は全てが異なっているのではないか……という感覚も捨てきれない。
だが、私の質問はお預けになった。
扉をノックする音が聞こえたと思った瞬間、こちらの返事も待たずにアメリアが慌てた様子で部屋に入って来たのだ。
彼女は私とレンが手を握り合っている光景を見て、「見てしまった!」という表情を一瞬浮かべたが、すぐに何食わぬ顔でお辞儀をした。
「お取り込み中のところ、申し訳ございません。……お嬢さま、お父さまがお呼びです。しかも急いで来るようにと……あの……レンさまもご一緒にとのことでございます……」
お取り込み中っていう表現は、『この世界』でも使うんだ……などと呑気なことを思った私は、アメリアの様子から、自分がかなりマズイ状況にいるのだと察してすぐに身をこわばらせた。
そして、いまだレンの手を握ったままだったことに気づいて、慌てて彼の手を離した。
頭の片隅に追いやられていた「アンドレアが婚約した」という話が急に胸によみがえる。
アンドレアの父親が彼女を呼んでいる理由は、まさにそのことだと勘が告げていた。