始まりの日々(8)
次に口を開いた時、エレノアはこれまでとは別人のようだった。尊大さが消え、“普通”の顔をしている。
彼女は『伯爵夫人』としてではなく、エレノアという一人の女性の顔を見せていた。
「レンさま……あなたは娘の守護者として雇われたのに、なぜわたくしのことも守ってくださったの?」
私は訳がわからず、レンとエレノアを交互に見つめた。きっと私に共感することなどないエジャートン夫人だが、今は私と同様に困惑した様子を見せている。
エレノアは周りが目に入っていないように、ただレンだけを見つめながら話し続けた。
「ジェームズが、娘の守護者としてあなたを雇った時、彼はその理由を『貴族社会の馬鹿げた価値観や争いから娘を守るため』だとわたくしに説明したわ。でも、彼の本当の目的はわかっていた。夫は、わたくしから娘を守りたかったのよ。レンさま、そうでしょう? 『妻から娘を守ってほしい』と、夫はあなたに頼んだのでしょう? ……当時は、彼にエジャートン夫人の存在を知られてしまったばかりの頃だった。わたくしが娘に与える悪影響を、彼は何よりも心配したのよ……」
エジャートン夫人が居心地悪そうにモゾモゾと身動きしたが、エレノアは全くそれに気づかなかった。
「レンさまは、わたくしがどんな女なのかを、夫から聞いていらっしゃったでしょう。それなのに……どうしてあなたは、この屋敷にいらっしゃる時、わたくしのことも気にかけてくださったの? 娘が成長してからは頻度がかなり少なくなったけれど、お義母さまの突然の訪問は続いていて、それが夫の留守中に起こると、あなたはアンドレアのそばを離れなかったわね。それは当然だわ。あなたは娘の守護者ですもの。でも……」
レンは何も言わず、エレノアを見つめ返している。
エレノアが抱えていた思いや疑問を吐き出すのを、レンは静かに見守っているように見えた。
「……あなたは、わたくしがお義母さまと二人きりにならないようにも気を配ってくださったわ。あなたの威厳に圧倒されて、お義母さまは意地の悪い真似ができなかったのよ……。でも……本来は……アンドレアだけを守って、わたくしのことなど放っておけば良いではありませんか! むしろ、そうするのが当たり前でしょう。わたくしがジェームズにしたことを思えば……」
レンが落ち着いた声で、ようやく口を挟んだ。
「あなたが酷い言葉を浴びせられるのを、黙って見ていることはできません。それに、スペンサー伯爵からも、あなたが辛い目に遭いそうになっても放っておけ、などとは言われていません」
レンは静かに……だが、きっぱりとした口調で続けた。
「もし私が、それを言葉にしてスペンサー伯爵に尋ねていたとしても、彼はあなたのことを『放っておけばいい』とは、決して言わなかったでしょう」
「そう……」
エレノアは一瞬、泣き出しそうな表情を見せたが、すぐにいつもの『伯爵夫人』の顔でそれを覆い隠してしまった。
レンはその様子を見ながら、ゆっくりと言った。
「彼がそのような人間ではないと、あなたもわかっているはずです」
「……」
エレノアはしばらく黙り込んだ後、レンをまっすぐ見つめた。その眼差しには、疑いようのない尊敬の想いが宿っている。
「……娘に関して意見の相違はあれど……あなたには敬意を抱いています。守護者という存在は時代遅れで、もうあなたしかその役割を担われていないとしても、あなたの偉大さは変わりませんわ。……わたくしは……。わたくしは……あなたの……仰るようにいたします。少なくとも婚約式まで、わたくしは娘と二人きりでは会いません。エジャートン夫人をお呼びすることもしないとお約束いたします……」
驚いたことに、エレノアはレンに向かって深々とお辞儀をした。それを見たエジャートン夫人も慌ててお辞儀をする。
エレノアは体を起こすと、自分の顔をあまり見せないようにして、そのまま扉へ向かった。秘めていた思いを口にしたり、素直にレンへの敬意を表したことに、彼女自身が戸惑っているようだった。
エレノアの後に続いて、エジャートン夫人が一目散に扉へ向かう。彼女は、初めて見た時よりも一回りは小さくなったように私の目に映った。彼女からは、早くこの場を立ち去りたいという気持ちが滲み出ていた。
エレノアは部屋を出る直前、意を決したように振り返り、私をじっと見つめた。彼女に出口を塞がれ、エジャートン夫人も仕方なく立ち止まる。
「アンドレア、わかってほしいの。お前の良い結婚は、お父さまのためでもあるのよ。これまで周囲の悪口や批判から、わたくしたちを守ろうとしてくれたお父さまの……」
そこで口をつぐむと、エレノアはサッと扉の向こうに姿を消した。夫人がそれに続き、扉が音を立てて閉まる。
嵐は去った。
しかし、私は身動きひとつできなかった。
これまでと違う様子を見せたエレノアに、私は動揺していた。初めて彼女の素の顔を垣間見た気分だった。あのエレノアの顔には、「話を聞いてくれた」ことに対する感謝の気持ちさえ浮かんでいたのだ!
エレノアが態度を軟化させたことに、私は驚いていた。
アンドレアがさっきのエレノアの姿を見たら、どう感じただろう?
エジャートン夫人のことに関しては、いまだに不快な感情が渦巻いているものの、私はもうエレノアをただの“嫌な奴”とは見られなくなってしまった。
彼女が味わった辛さや悔しさは、私にも理解できる。
私自身は結婚をしていなくとも、両親を見て、嫁姑問題や親戚付き合いの厄介さはよく知っていた。大袈裟な言い方だが、それは時に、愚かしいほど幼稚な様相を呈するものだ。本当に。
(意地の悪い義母たちを見返してやりたい? それも当然のことだわ)
それにしても……女だから、この家を継げないというのは納得できない。そもそも本当に継げないのか、ただエレノアがそう決めつけているだけなのか……。ドラマや本でもよく出てくるような事柄とはいえ、実際に耳にすると複雑だ。
たとえば、結婚相手に婿養子としてきてもらえば、それはひとつの解決策になるのだろうか?
そして……守護者が時代遅れというのは、どういう意味なのだろう?
私はてっきり、他の家にも当然そういう人がいると思っていた。この世界では、ごく当たり前の存在だと……。
(だめだ……考えがまとまらない)
私は目をつぶり、ひたすらレンに『どうか離さないで。もう少しだけ、このままでいて』と心の中で願っていた。
その願い通り、彼は私を抱き寄せたまま、しばらくじっとしていてくれた——。
エジャートン夫人の甘ったるい香水の匂いが、まだこの部屋にはかすかに残っている。
(外の空気が吸いたい……)
私は切実にそう思った。
この部屋から離れたいだけでなく、アンドレアの部屋に戻りたくもなかった。
レンはすぐに、私のこの願いも叶えてくれるだろう。
ついに、この屋敷の外へと出る時が来たのだ。
誤字報告をくださった方、ありがとうございました!




