始まりの日々(6)
視線の先……扉のそばにレンが立っていた。
冷静さは保っているものの、その目には激しい感情が浮かんでいる。
「レ……ンさま……どうしてここが……?」
エレノアは、まるで密会がばれたように慌てふためいていた。
アンドレアの部屋からこの部屋までは、かなりの距離がある。廊下を突き進み、階段を上がり、また廊下を進んで、右に曲がり……。しかも、この広い屋敷の中ではまず目が向かない、かなり隅にある質素な部屋だ。
私はエレノアの後をついてきたが、レンには案内してくれる人もいない。
だが、私にとっては驚くことでもない。
彼ならきっと、私たちのいる部屋を見つけ出すことなど簡単だろう。
「ぃぃ、いったい……いつから……いらしたの?」
「……『お前に随分と勝手を許してきましたが』……といったあたりからですね」
エレノアの問いに、レンは淡々と答えた。
レンの名前を耳にしたエジャートン夫人が、「レ……レンさま? このお方が……」と呟きながら、私の腕からゆっくりと手を離した。
案の定、彼女の頬は火照ったように赤くなっていたが、すぐにその顔からさーっと血の気が引いていく。
レンがこちらに一歩近づくごとに、夫人は私から離れて後ずさった。その表情には、恐怖にも似た感情が浮かんでいる。
レンは私の隣まで来ると、エレノアたちから引き離すように私を強く抱き寄せた。
彼の力強さに安心すると同時に、結局のところ「従順な娘を演じる」ということさえ果たせなかった自分を情けなく思った。
いつも私は、レンに助けてもらうばかりだ。
夫人はエレノアのそばに駆け寄ると、ヒソヒソ声で捲し立てた。たとえ小さな声であっても、この静かな部屋では、彼女が何を言っているのかが私の耳にもきちんと聞こえてくる。
「奥さま! この屋敷にレンさまがいらっしゃるなんて聞いておりませんわ……! なぜ守護者が近くにいると教えてくださらなかったのです! ひ、ひとまず私はおいとまいたします」
急いで部屋から出て行こうとする夫人に向かって、レンの鋭い声が飛んだ。
「『ひとまず』とはいかないでしょう」
彼はエジャートン夫人を見据え、厳しい声で告げた。
「今後は、アンドレアに近づかないで頂きたい。そもそもあなたは、この屋敷に足を踏み入れることさえ控えるべきです。あなたがここにいると知ったら、スペンサー伯爵はどんな反応をなさるでしょうね。あなたにも、想像するのは難しくないはずだ」
それを聞いて、夫人の顔はさらに青ざめた。
スペンサー伯爵とエレノアの結婚において、このエジャートン夫人が大きな役割を担ったのは間違いない。そして、伯爵がこの夫人に対して良い感情を抱いていないのもまた明白だった。
次にレンは、エレノアへ視線を向けた。
「エレノアさまも、今後はアンドレアと二人きりで過ごすのはお控えください」
「な、何を言っているのです! わたくしはこの子の母親ですよ!」
「このように卑しい真似をなさるのであれば、いくら母親であろうとも、アンドレアと二人きりにはさせません。……私の見方が甘かったようだ。エレノアさま、あなたは一線を越えたのです。これが何を意味するか、おわかりになりますか?」
エレノアは信じられないという表情で、何か言おうと口をぱくぱく動かした。だが、言葉は出てこない。
レンは眉をわずかに動かし、静かに言った。
「ご不満ならば、こちらに伯爵をお呼びしましょうか? 今すぐに。あなた方がアンドレアに何をしようとしていたか知れば、彼も黙っていないでしょう」
「……っ! あなたともあろう方が、わたくしたちを脅すおつもりなの!?」
「とんでもない。これはあなた方のお得意な“取引”ですよ。もっとも、あなたがスペンサー伯爵に差し出したのは“見せかけの優しさ”だったが……。それで、あなたは何を手に入れましたか? 豊かな暮らしと伯爵夫人の座……伯爵にとっては随分と不公平な取引でしたね」
「「……」」
エレノアとエジャートン夫人は、グッと黙り込んだ。
その様子を見ながら、レンは落ち着き払って先を続けた。
「それでは、私は公平な取引といきましょう。今日のことは、伯爵に報告しません。その代わり、今後エレノアさまがアンドレアと二人きりで過ごすことは認めません。彼女に会う時は、必ず私か伯爵を同席させてください。そして……」
レンがエジャートン夫人に目を向けると、彼女は顔をひきつらせて飛び上がった。
「あなたは、この屋敷に二度と足を踏み入れないように……。アンドレアに決して近づかないでください」
「しょ……承知いたしました……!」
夫人は今にもひれ伏さんばかりの勢いで、お辞儀をした。
しかし、エレノアはまだ諦めなかった。
「娘にはわたくしが必要です! 女である以上、アンドレアはこの家を継げないのよ。娘がこの先も安泰でいるためには、なによりも『良家との結婚』が要るのです! ……この屋敷では、誰もが娘を愛し敬意を払ってくれる。その上、ジェームズとあなたに甘やかされ……それに慣れて娘はいつまでも現実を見ようとしないのよ! 外の世界で物を言うのは、何よりも身分なのです! その意味でも、娘は公爵家の人間になることを絶対に成し遂げなければなりません」
安心させるように、レンは私を抱き寄せる腕に力を込め、エレノアに向かって鋭く言い放った。
「それはアンドレアのためですか? それとも、あなたのためですか?」
「……なんですって?」
エレノアは不意を突かれて、目を見開いた。
レンは表情を変えず、ただ彼女を見据えている。
「アンドレアを、あなたの復讐に利用するおつもりなのかと聞いたのです」
部屋の中が、しん……と静まり返った。




