始まりの日々(5)
私はあろうことか、エジャートン夫人とエレノアを順番に睨みつけたのだ。
レンは「反論したかったら、してもらって構わない」と言ったが、「喧嘩を売っていい」とは決して言っていない。だが私の態度は、反論というよりも“攻撃的なもの”だった。
この婚約を破棄することは決まっていて、実際にはローレンスに媚を売ったり、ましてや色仕掛けをする必要はない。本来なら、エレノアに大人しく「はい、はい」と言っていれば、それで済む話だ……。
だが、この場において従順でいることは、たとえフリでも危険だった。彼女たちの要求は、のらりくらりとかわせるレベルではないだろう。
これでは、この二人の思い通りにされてしまう。
そんな恐怖を感じて、私はここから逃げ出したくてたまらなかった。
彼女たちが私に教え込もうとしているのは、容姿や言動で相手を騙しにかかる類のものだ。フリでさえ、それに同意はできない。「好きな人のために、お洒落を頑張ろう!」のような、可愛らしいものではないのだから……。
私は二人を睨みつけたまま、低い声で言った。
「もちろん、できますとも……。妖艶な姿で誘惑するのも、相手の気分を良くする言葉を並べ立てるのも、しようと思えば容易いことだわ。簡単なことでしょう。でも、私はそんなことをするのは嫌よ! これは『できる、できない』の問題ではなく、『するか、しないか』の問題です!」
私はエレノアに非難の眼差しを向け、こう続けた。
「お母さま、こんなのあんまりです! 男を手玉に取る方法なら、昨日お母さまから散々聞かされ……ぃぇ、色々教えて頂きましたわ。こんな風に、わざわざ誰かを呼ぶ必要はありません!」
「何を言っているのです! お前はわたくしの話をただ聞いていただけで、全く納得していなかったでしょう! これまでもずっとそうだったわ。どれだけ私が教え込んでも、一向に活用しようとしない! ですからもう、こうするしか他に手がないのです」
私はエレノアから視線を外し、今度はエジャートン夫人をまっすぐ見つめて強い口調で言った。
「それなら、ここで申し上げておきます! あなたに何を言われても、従う気はありません。私はローレンスさまに真心で接します。小手先や偽りの言葉で、彼の心をどうにかしようなんて考えたくもありません! ……随分と自信をお持ちのようですが、女性が皆、そんなことをすると思っていらっしゃるのなら大間違いです」
エジャートン夫人は、まるでニタニタ笑いを隠そうとするように、わざとらしく真面目な表情をして言った。
「失礼ながら……お嬢さま。実際に多くのご令嬢が私から教育を受けて、満足のいく結果を得ておりますわ。私を頼りにしてくださる女性は、増える一方ですのよ」
「どれほど多くの方があなたに賛同しようとも、私には関係ありません。私はしたくないと言っているのです。私は……私のやり方で向き合います」
エジャートン夫人の得意気な顔に、私はなんともいえないくらい腹が立った。
おそらく彼女は話術の玄人だ。
巧みに相手の弱いところをくすぐり、意のままに心を操ってきた実績を持っている。それ故の自信だ。
そして、
そんなやり方はおかしいと全く思っていない。
そして、
同じやり方でローレンスも手に入れられると思っている。
そして、
私——アンドレア——が、そういうことをする人間だと思っている……! あぁ、もう! なんて、腹の立つ人なんだろう! あなた、そのニタニタ笑いも隠せていないわよ!
私が再び何か言うのを遮るように、エレノアがエジャートン夫人に話しかけた。
「エジャートン夫人、ごめんなさいね。ご覧のように、娘は夫に似て頑固なの。この期に及んで、まだ『あれは嫌だ』『これは嫌だ』と言うのですから、本当に困ったものだわ。今まであれほど教えたというのに、娘は何も理解していないのよ」
そこに私は急いで口を挟み、なんとか軌道修正を図ろうと試みた。
「そんなことはありませんわ! お母さまにとって結婚がどれほど大事なのか……充分すぎるほど理解しています! 私も……色々……きちんと向き合っていますわ。ですから私は昨日、下着の話を持ち出されても、何ひとつ文句も言わずに耐えたのです!」
「まぁ! 文句を言わないなんて当然でしょう! 全てはお前のためにしていることなのよ!」
「……そんなに、私をどうこうしないと駄目だと思っていらっしゃるの!? ローレンスさまは、ありのままの私を見て婚約を申し込んでくださったのよ!」
「お前は気の利いた言葉ひとつ言えないんですもの。心配して当然でしょう! エジャートン夫人、これであなたを頼った理由がおわかりになるでしょう? わたくしに教えてくださった技術を、娘にも身につけさせてほしいのです。叩き込んでほしいのよ! わたくしだけでは力不足なんですもの」
エジャートン夫人は、軽く笑いながら言った。
「まぁまぁ、奥さま。どうぞお気を静めてください。奥さまにとって理想の娘とはいかなくても、お嬢さまはこうして、最大の大物を釣り上げたんですもの。誇りに思うべきですわ」
……つ、釣り?
エジャートン夫人は立ち上がり、こちらに近づいてくると私の肩を抱くようにして体を擦り寄せてきた。
「お嬢さまは、お金や地位に関心をお持ちではないのでしょう。それなら、優しさはいかがです? ハンサムで凛々しい男性は? 優しくて立派なお方に愛されたいと……望んでいらっしゃるのでは? お嬢さまの真心で接したいという思いは、気高いと思います。ですが、奥さまと私からすれば頼りないのです。上手くいくという確信が持てませんわ」
彼女は私の手を握り、さらに近づこうとするように私の顔を覗き込んだ。
「お嬢さま、あなたがその気になれば、いとも簡単に望む相手を手に入れられるのです。一度試されてみてはいかがでしょう? ……面白いものですよ。本当に思うがままなんですもの」
ちょ……ちょっと黙ってもらっていいですか?
怒りに駆られて出かかったその言葉を、私は懸命に飲み込んだ。そして、伯爵令嬢の威厳をかき集め、姿勢を正してクッと顎を少し上げた。
次に口から出てきたのは、先ほどよりもさらに低い声だった。
「随分とローレンスさまを馬鹿になさるのね」
私の言葉に、エジャートン夫人が初めて顔色を変えた。
「いいえ、私はそんな……」
「いいえ! あなたは馬鹿にしています。ローレンスさまのことだけではないわ。あなたは、私のことも世の女性のことも馬鹿にしているのよ。だいたい、ローレンスさまのことを何だと思っているの? 彼は弄ばれるような人ではありません! こんなの……品位の欠片もありませんわ。浅ましい行為です!」
エジャートン夫人の顔は強張り、私の言葉に激しく苛立っているようだった。
しかし、エレノアは表情ひとつ変えない。ただ、その目は私を射抜くように見つめた。
エレノアは口を開き、静かな口調で言った。
これまでに聞いた彼女の声の中で、一番冷静な声だった。
「……お前には義務があるのです。これまではお前に随分と勝手を許してきましたが、もうそうはいかないの。今日からが、わたくしたちの始まりの日々よ、アンドレア」
わたくしたちの始まりの日々……。その不穏な響きに私の体は震え、エレノアはそれを黙ったまま眺めていた。
エジャートン夫人も何も言わず、部屋は静まり返った。
突如その沈黙を破ったのは、霧を晴らすような澄み切った声だった。
「そろそろ、アンドレアをお返し願いましょうか」
私が今、誰よりも聞きたい声だった。
そして……おそらく彼女たちにとっては、最も聞きたくない声だろう。




