花びら
私が初めてレンに抱いた印象は、冷静沈着。
この部屋に入って来た時、その端正な顔には特にこれといった感情が見えなかった。アンドレアに自ら会いに来たわりには、親しい人に向けるような表情もない。笑顔もなければ、こちらを気にかけている様子もなかった。
ただ何事にも動じなさそうな威厳を漂わせ、それは一種の人を寄せ付けないようなオーラを感じさせた。
その彼が今、私の涙を見て、明らかに悲しみの表情を浮かべている。
彼はとっさに慰めようと、私の背中に腕を回し、その胸に抱き寄せようとした。だが、私の頬が彼の胸に触れる寸前、レンはハッとしたように動きをとめる。
……?
私がそっと顔を上げると、彼は目の前の空間を見つめて固まっていた。
私の「容姿」はアンドレアだが、私はアンドレアではない。
はたして初対面の女性を抱きしめて良いものか……。
彼がそう葛藤しているのがわかり、私は思わず目を見張った。
……なんて表情が豊かなの……!
さっきとは打って変わった印象に、ときめきのような感情が胸を満たす。
これが、いわゆるギャップというもの……いえいえ、こんなことを感じている場合ではないのよ……。
私は半ば呆れたように自分に言い聞かせると、適切な対応をしようと口を開いた。
大丈夫ですよ、ちょっとホッとして涙が出ただけですから……そう言おうとしたのだが、それよりも先に、彼は何かを思いついたように私を見つめた。
こ、今度は何……!?
心の整理がつかないまま、次々に起こる展開に翻弄されている。その自覚はあるが、今の私に何ができよう?
レンが再び私の手を取るのを、ただ黙って見ているしかできない。
レンがゆっくりと目を閉じた瞬間、私の目の前にたくさんの花びらが舞った。
……淡いピンク色の花……? ……これ、桜だ!
どこから吹いているのかもわからない風にヒラヒラと揺られ、花びらは私の頭上から舞い落ちてくる。
花びらはわずかに光を帯びていて、その幻想的な美しさに、私は思わず手を差し出して、花びらを受け止めようとした。
私の手に触れると、花びらは柔らかな光を放ち消えてしまったが、その光は消えずに私の手のひらに吸い込まれるように入っていく。その度に体力が増し、気力が回復しているように感じられた。
これはいったいなに?
私は自分が陥っている状況さえ忘れて、目の前の光景に心を躍らせる。自分でも、今、私の目が輝いているのがわかる。
だって、こんな綺麗な花びら見たことある?
問いかけるように、フッとレンに視線を向けた。
すると、笑顔になった私を見て、レンは安心したように優しい微笑みを浮かべた。
あぁ……どうしてこの人はわかったのだろう。
私がずっと桜を見たいと思っていたことを。
この5年ほどは、桜の季節になっても、通勤の電車から窓越しに遠くの桜を見るだけだった。確かにピンク色は見える。それに、それが桜であることもわかる。だが、当然風情を感じるまではいかない。
この2年は特にひどいが、その前から既に仕事に追われ、休日に出かける気も起きなかった。気づけば桜は散っていて、今年も見に行かずに終わったなといつも思う。
私のいた世界は今、ちょうど3月中旬。
桜の開花予報が報じられている時期だった。
(私には関係ないな。まぁ、仕方ないよね。忙しいし……お花見に行く時間があるなら寝ていたいし……でも……桜見たいな……大好きなのに……)
今年もいつものように、そんなことを考えていた。
桜が見たい、でもきっと今年も無理。
投げやりな気持ちで、そう諦めていた……。
『桜がきっと私を元気づけるだろう』
さっきレンと目を見つめあっていた間……あのわずかな時間に彼にはそんなことまでわかったというのか……。