隣の部屋
レンが扉を開けると、くぐもってよく聞こえなかった声がはっきりとした。
「……こそ、どういうつもりだ! 勝手にあんな部屋を用意して、私が気づかないとでも思ったのか? あれほど遠ければ、娘がレンに会いたいと思っても不便すぎるではないか! せっかくレンがこの屋敷に留まってくれるというのに、なぜ邪魔をする!?」
「だからといって、わざわざこの部屋にすることはないでしょう! アンドレアの隣の部屋は、ローレンスさまにお泊まり頂く予定なのよ!」
「冗談を言うな! ローレンス殿がやってくるのは、ずっと先……早くても婚約式の一週間前じゃないか! 彼には別の部屋を用意する。なにより、レンにはアンドレアのそばにいてもらう必要があるのだ! 何かあった時、娘を守れるのはレンだけだ。この部屋は絶対にレンに使ってもらう!」
「ローレンスさまは結婚を申し込んでくださったのよ! 決闘を申し込んできたのではないわ!」
声の主は、スペンサー伯爵とエレノアだ。
それがわかり、私はホッと胸を撫で下ろした。
(知っている人でよかった……。誰かがこの屋敷に乗り込んできたのかと心配しちゃった……)
レンは二人に声をかけず、黙って成り行きを見守っている。彼は少々呆れているようにも見えた。
私はベッドから立ち上がり、レンのそばに駆け寄った。
すると、隣の部屋の前で言い争う二人と、その周りで狼狽えている使用人たちの姿が見えた。
伯爵もエレノアも言い合うのに夢中で、私とレンには気づいていない様子だ。
使用人の何人かが私たちに気がついてお辞儀をしてくれたが、彼らはみな困り果てた表情をしていた。
夫婦喧嘩の原因は、レンが泊まる部屋だ。
アンドレアのすぐ隣の部屋を使わせようとした伯爵と、遠くの部屋を勝手に用意していたエレノア。
まぁ、二人の意見が一致することはないだろう……。
エレノアがすごい剣幕で文句を言うと、途端に伯爵の目つきが変わった。
怒りを帯びていた表情が急に冷静になり、彼は厳格な雰囲気でこう言い放った。
「ここが駄目だと言うのなら、レンにはアンドレアの部屋に泊まってもらう」
エレノアが「正気か!?」と言うように目を見開いたのを見て、私は慌てて下を向き、笑い出すのを懸命に堪えた。
「お前はすぐに忘れてしまうようだが、この屋敷についての権限は全て私にある。……だが、この部屋をレンに使わせたくないとお前が言い張るならば、ここは譲ってやろう。代わりにレンには娘の部屋に泊まってもらうが……レン、君は構わないだろう?」
伯爵はそう言いながら、レンに視線を向けた。
(えっ! 私たちがいるのに気づいてたの!?)
私は驚きに目を丸くしたが、エレノアは私以上にびっくりした様子でレンと伯爵を交互に見つめた。
「ま、まぁ、レンさま……そこにいらっしゃったの? どうぞ誤解なさらないでくださいね。べつに……あなたと娘を引き離そうとしたわけではないのよ」
レンはにっこりと微笑みを浮かべ、涼しい顔でエレノアに言った。
「構いませんよ。その部屋をローレンス殿に使っていただきたいのであれば、私は遠慮しておきましょう。私はアンドレアと同じ部屋でも、問題ありませんからね」
それを聞いたエレノアはキッと夫に視線を向けて、半ば喚くように叫んだ。
「わかったわよ! この部屋でも何でも、好きになさればいいわ! その代わり、レンさまを娘の部屋に泊めるのだけはやめてちょうだい! そんなこと、ローレンスさまにどう説明しろと言うの!?」
スペンサー伯爵もレンも、もちろん本気で「アンドレアの部屋に泊まる」ことを考えたわけではない。ただのエレノアを譲歩させるための口上だ。彼らに出会ったばかりの私でもそれがわかるのに、エレノアにはわからないらしい。
レンがエレノアに出し抜かれることはあり得ないが、スペンサー伯爵も、意外と妻の扱い方を心得ているのかもしれない。
スペンサー伯爵、エレノア。
そして、レン。
私はこの三人を不思議な気持ちで見つめた。
アンドレアを取り巻く彼らは、ある部分で絶妙な均衡を保っている。それがあるからこそ、こうして会話が出来る状態が維持されているのだと感じた。
この三人のうち誰か一人でも一線を越えれば、「レン・スペンサー伯爵」と「エレノア」の間には、今とは比べものにならない激しい敵意が生じる。それは修復が望めないまでに、彼らの関係を歪めてしまうだろう。
彼らはそれを知っていて、あえてその一線を越えることを避けているように見えた。
だから、伯爵はその権威を持ってエレノアを服従させることはせず、ある程度まで彼女の身勝手さに耐えている。
そして、エレノアも……。一見しただけではわからないが、実は彼女も引くべき時と踏み込んではならない領域はわきまえているのだ。
レンにいたっては次元が違う。彼の圧倒的な存在感と力は二人を凌駕している。その気になれば全てを意のままに出来るのかもしれないが、彼はそうしない。
レンはこれまでもずっと、この伯爵夫婦の関係性を崩さないように配慮しながら、アンドレアを守ってきたのだろう。
(私も……彼らの関係性を崩さないように、気をつけないといけないんだわ)
この世界に放り込まれた私は、伯爵とエレノアにとっても思わぬ「客」だ。私の不用意な言動で、彼らの間に余計な問題を引き起こしてしまう可能性だってあるのだ。
(本当に……慎重にならないと……)
私は助けを求めるようにレンの方へ手を伸ばし、ローブの袖を軽く掴んだ。
たったこれだけで「もう大丈夫」だと思える。
そう安心感を覚えた途端に、私は誰かの視線を感じた。




