婚約のゆくえ
私は今、アンドレアとして此処にいるが、彼女の記憶を共有しているわけではない。
どれだけ彼女に配慮しようとしても、そこには限界がある。
「なぜ、そうしたの?」
「本当はどうしたかったの?」
いくら問いかけても、その答えが手に入ることはない。
だから……私自身の考え方と判断力、そして見る目。
それを信じて前に進むしかないんだ……。
レンは私を見守っている。
急かすでもなく、圧をかけるわけでもない。
その青い瞳は静けさをたたえ、眼差しは叡智に満ちている。まるで私が賢明な判断ができるように、支えを差し出しているかのようだった。
(あなたは、なんて不思議な人なの……)
レンは深遠な謎に満ちている。
私はアンドレアの謎よりもずっと、彼のことが知りたいと思った。
(だめね……。アンドレアのことに集中しないと……)
私は目を閉じて、自分が置かれている状況に意識を向けた。
レンは今、アンドレアのことを何も知らない私に、考える時間を与えようとしている。
ただ「君はアンドレアのことも、この世界のことも知らないのだから、私の指示に従えばいい。婚約は破棄するように」と言ってしまえば簡単な話なのに、彼は命令したり、強制したりしない。
私が心を決めるまで、彼は一週間でも、いや、それ以上でも待つだろう。忍耐強さと優しさを持って……。
でも、そんなに待たせはしない。
閉じていた目をゆっくりと開いた時、私の瞳には強い意思が宿っていた。
……婚約を破棄する。
私が下したのは、この決断だった。
レンはアンドレアを守ろうとしている。
それを何よりも優先すべきだと思った。
この世界のなかで、彼ほど深く物事を理解している人間は他にいないだろう。その彼が言うならば、この婚約を破棄することが最善の選択だと思った。
辛い生活を強いられることなく、アンドレアがローレンスと結ばれる道があるのなら、レンはとっくにそれを見つけていただろう。
全員を喜ばせることはできない。
婚約を破棄されて、ローレンスはがっかりするだろうけれど、アンドレアに苦しい生活を送らせたくはないはずだ。
アメリアも、ローレンスの幸せを願えど、アンドレアが苦痛を感じることは望んでいない。
それにレンは、ローレンスに対しても愛情を抱いている。彼ならきっと、アンドレアとの結婚以外の形でローレンスの力になってくれると信じられる。
人々を助けようとしているローレンスに、レンは優れた助言を与えられるし、支えとなってくれるだろう。
もしかしたら、ローレンスが素敵な女性と出会えるよう、心を配ってくれるかもしれない! 公爵家での生活を逞しく生き抜けるうえに、ローレンス自身を愛してくれる女性がいる可能性はあるのだから……!
私はレンをしっかりと見つめて、口を開いた。
「この婚約は、破棄します」
レンは私の手に、彼の手をそっと重ねた。
「ありがとう。私が必ずそばにいて、全てにおいて君を支えるよ」
私は微笑んで頷いた。
彼がそうしてくれることは、わかっている。
レンは最も信頼できる人だと、私の心は「知っていた」。
心……あるいは魂という言葉を使っても良いのかもしれないが、とにかく私の全てがそう告げていた。
レンは言うのを少し躊躇ったが、それを押し切るようにして先を続けた。
「……君をこの世界に連れてきた力の正体はまだわからないが……時期と状況を見るに、公爵家と何らかの関わりがある可能性は否定出来ない。式で宣言するまでは、婚約破棄について誰にも悟られないように。この件は慎重に、そして密やかに進めていく。エレノアにも『婚約を受け入れている』様子を見せて、大人しくしておいた方が良いだろう。そうしないと、君が余計に辛い思いをしなければいけなくなるからね……」
「そうですね……。エレノアの前では、従順な娘を演じることにします……」
その時、部屋の外で誰かが言い争っているような声がした。何を言っているかまではわからないが、男女の声だ。
レンは素早く立ち上がると、まっすぐ扉に向かった。
その姿を、私は不安な面持ちで見つめていた。




