それぞれの気がかり
「婚約式で婚約を破棄するなんて、相当な覚悟がいりそうですね……。これまで、それを実際にした人は……」
レンは困ったように、弱々しく溜息をついた。
「私の知る限りでは、誰もいない」
(そ、そうですよね……。やっぱり……!)
私は心の中で呻いた。
婚約式で……みんなが集まっている中で……婚約破棄を宣言なんて……。
そんな場面を想像しただけで、胃が痛くなる。
レンは私に説明しようと口を開いたが、彼自身、この決まりには納得していない様子だった。
「一応、これは求婚される女性の為に作られた決まりだ。たとえ立場が弱くても、自分の意思を貫ける機会が確保されることになるからね。だが、うまく機能はしていないな。結局のところ、声を上げづらいのだから……」
「そうですよね……。それなら、身分に関係なく、いつでも自由に発言できるようにすればいいのに……」
「彼ら……特に上位の貴族たちだが……彼らは、それは嫌なんだ。自分たちが握っている主導権を手離すつもりはない。それに……彼らはあまり真剣には考えていない。全員がそうだとは言わないが、ご令嬢たちは確かに、より身分が高い者との結婚を望んでいるからね。多くの者にとって、婚約を破棄したがる女性がいるとは、信じられないのだ」
なんだかモヤモヤする……。
こんなルールを、いったい誰が決めたの?
苛立つ私をなだめるように、レンが背中を優しく叩いた。
「だが、形だけでも、この決まりがあってよかった。簡単なことではないが、望まぬ結婚を逃れる為の『最後の頼みの綱』だからね。……エレノアの反応は心配しなくていい。彼女が落ち着くまでの間、私が君を連れてこの地を離れてもいい。エレノアと違い、私とジェームズにとっては、アンドレアの人生を守る方が大切なんだ」
このままでは、本当に婚約破棄になってしまう……!
慌てた私は、ついにローレンスの話を持ち出して、食い下がった。
「あ、あの……そもそも……この婚約は、本当に破棄しなければいけないんでしょうか? 会ってみたら、彼が結婚相手に相応しい方だと思われるかも……もちろん内面においてっていう意味です! 実は……いえ、もしかしたら……ローレンスさんって、結構『いい人』なのかもしれないって思うんです」
うぅ……弱すぎる。
説得力の欠片もないわ……。
レンのように色々なことを深く見通せる人に対して、何も知らない私の「かも?」なんて仮定の話が通用するわけがない。
こうなったらアメリアを呼んで、彼女自身から“愛しの坊や”について語ってもらうしかない……!
そう思い立った瞬間、レンは至極当然のように言った。
「ローレンスは善い人間だよ」
予想もしていなかった言葉に、私は目を丸くして、レンを見つめた。
「……い、いい人なんですか? 知って……いらっしゃるんですか? 確かに、伯爵に対して『悪意があるような人には見えなかった』みたいなことを、仰っていましたけど……」
そういえばあの時、レンはまるで言いたくないかのように、伯爵に対してわずかなことしか教えなかった。
でも、やっぱり彼には、もっと多くのものが見えていたんだ……。
それなら、どうして……。
「……どうして伯爵に、ローレンスさんのことをもっと教えてあげなかったんですか? 彼がいい人だとわかれば、伯爵はもっと安心されたはず……」
私の質問に、一瞬でレンをまとう空気が変わった。
私は今、彼が踏み込まれたくない領域に足を踏み入れようとしている。
全身でそれを感じると同時に、頭の中で警告音が鳴り響いた。
踏み留まるべきだとは、わかっている。
レンが言わないのなら、それには必ず理由があるはずだ。
何も知らない私が、単純な見方で判断すべきではない。
それなのに、私は先を続けてしまった……。
「……彼が本当に『いい人』なら、そうだと教えてください。それを聞いて安心するのは、伯爵だけではありません! 私だってホッとします。……どうして、会う前から婚約を破棄させようとなさるんですか?」
今、私の物事の見方は、振り子のようなものだ。
誰かから聞いた話で、あっという間に見方や考え方が両極端に揺れ動いてしまう。
富と力を持つただの貴族が、アメリアの話を聞いたことで『愛を求める青年』へと姿を変え、私は彼の力になりたいとまで思っている。
だが、誰かからまた別の話を聞けば、それに応じてローレンスの姿はまた違って見えるだろう。
それなら、私は何を信じればいい?
最も信頼できるのは、目の前にいるレンだ。
その彼が隠していることがあるのなら、私は何が何でも知りたかった。
レンは私から目を逸らしたが、それでもわかる。
彼の瞳がいまや、燃え上がるような感情の昂りを映し出していることを……。
長い沈黙があり、ようやく何かを言おうとして彼の唇がゆっくり動く。
それを目にした瞬間、私は思わず自分の手をぎゅっと握りしめた。




