頼み
私とレンの間に、沈黙が訪れた。
彼の目には迷いがないが、面食らった私の目には動揺が走っている。
「……破……棄……です……か?」
私がようやく絞り出せた言葉は、たったこれだけだった。
てっきり「エレノアの要求に屈せず、なんとか持ちこたえてほしい」みたいなことを頼まれると思ったのに……。
私はアンドレアとローレンスが結ばれるハッピーエンドを目指すつもりになっていた。
だから、婚約破棄という選択肢は浮かびさえしないもの——私がうまく立ち回れず、そのせいでローレンスから婚約を破棄されたらどうしようとは思っていたけれど——だったのだ。
私の躊躇いに気づかないレンではない。
彼は私の頬から手を離し、その強い眼差しを幾分和らげて、私をプレッシャーから解放した。
レンは本当に優しい人だと思った。
あのままの状態でいれば、私は彼の力強さに圧倒されて、「わかりました」と言う以外になかった。
私に圧をかけて望む返事を得ることができたのに、彼はそうしなかった。
そう……彼は絶対にそんな真似はしない。
「この婚約を破棄するのは嫌なのか?」
レンが落ち着いた声で私に尋ねた。
もう有無を言わせないような口調ではない。
そして、怒ってもいないし、苛立ってもいない。
ただ純粋に私の気持ちを知りたがっていた。
(元々、レンは今回の婚約をあまり良く思っていなさそうよね……。もっとローレンスのことを知れば、考えは変わるかもしれないけれど、私はアメリアから聞いた話をまだ教えられないし……)
結局、私はローレンスのことには触れずに、もっと現実的なことで婚約破棄を避けようとした。
「あの……『婚約を承諾する』って、エレノアが既に返事をしてしまったし……。それに彼女は、婚約破棄は絶対にだめだって言っていましたよね……」
「正確には、エレノアは『婚約破棄を申し渡されるなんてことは、絶対に避けて』と言ったんだよ。私が頼んでいるのは、アンドレアから婚約を破棄してほしいということだ。こちらが破棄を告げるのだから、公爵家のご令息から破棄を申し渡されることにはならない」
「……それは屁理屈では……」
私がせめてもの抵抗で呟くと、レンはおかしそうに小さく笑った。
いつもの優しい微笑みの中に、冗談を言って面白がるような子供っぽさが混ざっている。
初めて見る彼の表情に、私はドギマギした。
「君を少しからかってしまったな、すまない。……では真面目な話に戻ろう。エレノアが勝手に返事をしてしまった為に、確かに事態はややこしくなった。一度承諾してしまった以上、我々に残された『機会』はひとつしかない」
私の不思議そうな表情を見て取り、レンは「あぁ、そうか……」と呟いた。
「君に貴族の結婚について、教えてあげなければならないね。ここでは色々と決まりがあるんだ。まず貴族が結婚するにあたっては、二人のうち身分の高い者が常に主導権を握ることになる。今回はもちろん公爵家のローレンスだね」
伯爵やエレノアの前ではないからか、レンはローレンスを呼び捨てにした。
ただ、ぞんざいな印象はなく、むしろローレンスに対する親愛の情を感じさせるのだから不思議だ。
ローレンスはまさに今、婚約を破棄させようとしている相手なのに……。
そういえば、私は最初から『沙希』と呼ばれているが、嫌な感じは全くしない。レンの優しい声で名前を呼ばれると、ただ心地良くて、安心する……。
彼が私の名前を呼ぶ声を思い出し、その響きに浸りかけたが、レンの真剣な表情を見て、私はすぐに気を引き締め直した。
レンは私が理解できるよう、ゆっくりと説明を続けた。
「ローレンスは『アンドレアへの求婚』の手紙を、スペンサー家の当主であるジェームズ宛に送った。いきなり手紙を送りつけるなんて失礼だと思うかもしれないが、彼はしきたりに従っただけだ。求婚者は、相手の家の当主に申し出る必要があるからね。もしこの段階で断っていれば、こんなおおごとにはならなかったな……」
そこでレンは眉をひそめ、エレノアへの苛立ちをわずかに滲ませた。
「残念ながら、今回は承諾の意が伝えられてしまった。こうなると三ヶ月後には婚約式が行われることになる。この三ヶ月間は婚約式までの準備期間で、この間にお互いが身辺整理をしなければならない。特に人間関係だな……。恋人がいるのなら婚約式までに別れなければならないし、他に恋する人がいるのなら、その想いを断ち切らなければいけない」
「そ、それって……」
「そうだ。貴族の結婚は、愛ではなく地位や財産の上に成り立っている。それを前提とした、暗黙の了解のような決まりだね。恋人がいようと、他に愛する人がいようと、より裕福で高い身分の者との結婚が選ばれる傾向にある」
今度は私が眉をひそめる番だった。
「……さて、貴族の結婚では身分が物を言う。ほぼ全ての選択権が、より高い身分の側にあるんだ。だから、ローレンスはこの婚約をいつでも破棄できるし、逆に三ヶ月という準備期間を早め、すぐに婚約式を挙げてしまうこともできる。ただ三ヶ月の準備期間を設けるのが礼儀とされているから、それを早める真似はしないだろう」
レンは私が頷くのを見て、先を続けた。
「一方、身分が低い側の……と言っても伯爵家なら充分に高いのだが……アンドレアには、『申し出を受けるか否か』の選択権しかない。さらに、その選択が出来る機会も限られていて、「家の当主が手紙を受け取った時」と「婚約式で正式に婚約をするか、破棄するかを問われる時」の2回しかないんだ。この時に表明された意思は神聖なものとされるから、身分に関係なくどちらかが拒否の気持ちを表明すれば、破談は確実だ。つまり、婚約式で君が婚約を破棄すると宣言すれば、いくら公爵令息でも受け入れるしかない」
婚約式までの流れは掴めたし、婚約を破棄する場合に、どうする必要があるかもわかった。
だが、気になることがある……。
私はそれを尋ねようと、恐る恐る口を開いた。




