待ちわびた人(3)
レンは静かに語り始めた。
私を不安にさせないよう、なるべく淡々とした言い方を心がけているようだった。
「今朝この部屋に来た時に感じたが、君とアンドレアの身に起きたことには何らかの“力”が関わっている。だが、その“力”はあまりにも弱く、痕跡を辿れる程の確かなものを何も残していないんだ……。念の為、この屋敷の中を隈なく調べて回ったが、特に不審な点は見つからず、何の手がかりもつかめなかった……」
「……“力”? じ、じゃぁ……これは誰かが意図的に引き起こしたっていうことですか? ……何のために? どうして私を?」
私は困惑して、眉間に皺を寄せた。
実際は困惑どころではない。大きなショックを受けていた。
別世界に来てしまうなんて通常は起こり得ないが、『運命のいたずら』のように考えてしまえば、まだ受け入れられた。そもそも人知の及ばないものだ。
まるで『選ばれし者』のように、天命が私をここに連れてきたという考えは、私にとって魅力的だった。
……だからこそ、心の片隅で思っていた。
私がここに来たことには、必ず意味があると。
この世界での目的だって見出せた。
それはアンドレアとローレンスの関係だ。だって私は今、他の誰でもないアンドレアとして存在しているのだから、彼女の婚約は私が心して対処すべき問題だった。
まだ不確かではあるが、大いなる愛の可能性を秘めた二人のために、“私”にできることがあると思えたのだ。
日々、クタクタになるまで働いて、あとは家に帰って寝るだけの人生なんて、もう嫌だった。
混乱に陥り、苛立ち、翻弄されながらも、内心では無味乾燥な生活から逃げ出せたと喜んでいたのだ。
でも、違う。
足の力が抜けていき、私はベッドにへたり込んだ。
これは、『誰か』が『何らかの目的』を持って、『意図的』に引き起こしたものなのだ。
奇跡的な何かではなく、人為的なものだった……。
確かに、私がここに来たことに意味はあった。ただし……それは「これを引き起こした人物」にとってであって、私にとってではない。
私は単に、その人物の企みに巻き込まれただけだ。
レンがゆっくりと私の隣に腰を下ろし、力の入らない私を支えるように肩を抱いた。
「君に答えを与えられなくて、すまない……。まだわからないことが多いんだ。なぜこんなに弱い力が、アンドレアを眠りにつかせ、さらには君をここに連れてくることが出来たのか……不思議でならないよ。こんな奇妙な出来事は聞いたことがない。私の姉なら何らかの情報を掴めるのではないかと思い、協力を求める手紙を送った。私は諦めるつもりはない。必ずアンドレアを取り戻し、君を無事に元の世界に帰す……」
あぁ、なんていうこと……!
「元の世界に帰す」なんて聞いても、全く嬉しくない。
そうしたら、もうレンに会うことができないじゃない!
そう考えただけで、苦しさと悲しみに襲われた。
今回のことを引き起こした張本人には腹が立つし、その『愚か者』の手によって私の人生が振り回されたと思うと、ひどく気分が悪い。しかも、今もその人物に見られているような気さえしてきて、恐怖まで感じた。
それでもまだ、私はこの世界に留まりたいと思っている。
あまりにも多くの感情が一気に押し寄せてきて、こらえきれずに私の目からは涙が零れ落ちた。
レンは私の顔を覗き込み、真剣な声で言った。一抹の不安など感じさせない、力強くて揺るぎない声だった。
「沙希、心配しなくていい。私がここにいて目を光らせている。誰が何を狙っているにせよ、絶対に君を守るよ」
レンの左手が私の手に重ねられると、その温もりがそれまで感じていた寒気を追い払ってくれた。
そうだ。彼には“力”がある。
きっと、こんな状況を引き起こした力なんかより、ずっと強い力が……。
私は小さく微笑んで、何度も頷いた。
レンは慰めるように私の手を握り、しばらくそのままでいたが、やがて遠慮がちに口を開いた。
「……君にはアンドレアとして過ごしてもらわなければならない。婚約の件では、特に負担をかけてしまうことになるだろう」
私が顔を上げてレンを見つめると、彼は悩ましげに眉をひそめ、言いづらそうに続けた。
「本当は……こんなことを頼みたくはない。だが、君の協力が何よりも不可欠なんだ……」
レンは本気で言っていた。彼の瞳には、私に対する申し訳なさと心苦しさが滲んでいる。
そんなものを感じてほしくなくて、私は力強く言った。
「大丈夫です! 婚約のことは、なんとかなります! 私にできることなら何でもしますし、アンドレアとして乗り切ってみせます。あなたがいてくださるなら、こんなに心強いことはありません。私はあなたのことを信頼していますから」
「……ありがとう」
レンはようやく表情を和ませて、また優しい微笑みを見せてくれた。
彼は一度目を伏せたが、次に視線を上げた時、その目には強い意志が宿っていた。
「それでは言おう……」
レンは左手で私の右頬に触れ、強い眼差しで私の目を見つめた。そして、有無を言わせない声でこう言った。
「この婚約を破棄してほしい」




