レンの手
レンは黙ったまま、こちらを見つめている。
私も何を言うわけでもなく、彼を見つめ返していた。
しばらくして、彼がこちらに近づこうと一歩を踏み出した瞬間、私は思わず口走った。
「私じゃない……!」
この部屋に入ってきた時から、ほとんど表情を変えなかった彼の顔に、初めて戸惑いの色が浮かんだ。
あぁ、こんな言葉じゃ伝わらないわ!
私が彼に言いたかったのは、『私がこの状況をつくったわけではない』ということだ。
私がアンドレアではないと知った時、その人がする反応はおおかた予想できる。
「アンドレアにいったい何をした!」
「彼女はどこにいるんだ?」
「早く本物の彼女を返せ……!」
きっと私を、彼女を奪った『敵』だとみなすだろう。
アンドレアと関係が近ければ近いほど、彼女のことしか考えられないはずだ。
私がこんな状況にただ放り込まれてしまっただけなんて……だから助けを必要としているなんて、頭に浮かぶことさえないのだろう。
でもね、こうなったのは私が何かをしたからじゃない。それに、こんな状況を望んだわけでもないの。
私が望んでいたのは、ただゆっくり眠ることだけ。疲れ切った体を休めて、ほんの少しでも元気を取り戻したかっただけ……。
「大丈夫」
レンの発した言葉に、私は軽く目を見開いた。
その口調が思いの外、優しかったからだ。
彼は私の前に来ると、こう言って両手を差し出した。
「手を……」
私は差し出されている彼の手を見つめた。
大きな手……その長い指は繊細さを感じるほど綺麗で、思わず見惚れてしまいそうだった。
私は恐る恐る、かなりゆっくりと彼の手に自分の手を近づけた。その動きはもどかしさを感じるほど遅かったが、レンは決して自分からは動かなかった。
まるで私が怯えることのないよう、配慮しているかのようだ。私から彼の手に触れるまで静かに待っていてくれる。
ようやくレンの両手に私の指先が触れると、彼は私の手を軽く握った。
レンの手に優しい温かさを感じた。
手の温度に優しさも何もないかもしれない。だが、これ以外に相応しい表現が思い浮かばない。ただ温かいだけではない。何かが他とは違う。
「目を見て」
私は重ねられた二人の手を凝視していたが、レンのその言葉に顔を上げると、彼はその深い青色の瞳でじっと私を見つめていた。私がレンを見つめ返すと、彼の瞳の青色がさらに濃さを増した気がした。
彼が何かを見ようとしているのを察したが、見つめられている間、特に探られている感じもせず、心を読み取られるような嫌な感じもしなかった。
しばらくして、レンはフッと目を閉じた。
「断片的だが……わずかに把握はできた。……君は……サキ……沙…希……沙希だね」
私の名前を確実なものにするように、レンはしっかりと口にする。
その時、私の目からぼろぼろと涙がこぼれた。
アンドレアとしてではなく沙希として、この世界で『私』の存在が受け入れられた。
その瞬間だったから……。