部屋の中で
「ゔ……うぅ……ゔうぅ」
部屋に呻き声が響いている。
「……ん……ゔぅ……」
時には苦悶に満ち、時には大いなる不満を込め、大袈裟なまでの呻き声を上げているのは、他ならぬ私だった。
エレノアから解放された後、半ば放心状態の私をアメリアが部屋に連れて戻ってくれたのだが、部屋に一人きりになるとすぐ、私はベッドに突っ伏して盛大に呻き続けた。
娘の結婚で頭がいっぱいの母親……。
エレノアは、公爵令息を決して手放してはならないと、あらゆる表現を用いて私に叩き込んだ。それは時に脅しの様相を見せ、いくら私が疎くても、彼女が色仕掛けも辞さないと考えていることは察しがつく。
正確な時間はわからないが、今はもう16時を過ぎている。おそらく2時間以上、私はエレノアの話に付き合わされていたのだろう。
たったの2時間程度!?
私にとっては、見たくもない映画を12時間ずっと鑑賞させられたような気分だった。大切な時間を無意味に浪費してしまった虚しさも感じる。
要するに……心底、疲れたのだ。
だが、嘆くような呻き声の割に、実際の私はそこまでダメージを受けていない。
たとえ、エレノアから男性を手玉に取る方法を無理矢理教え込まれても……。
その間も、入れ替わり立ち替わり人が現れては、
やれドレスがなんだの装飾品がどうだのと、
引っ張り回され、体のサイズを測られ、
しまいには下着の話まで持ち出され、どれだけ「ハラスメントだ!」と喚きたくなったとしても……。
だって、これくらい、なんだっていうのだろう?
別の世界に突然放り込まれたことを考えれば、こんなことは些細なことじゃない。
……とはいえ、体中に広がる薄気味悪い感覚は、私の気力を奪いにかかった。
私が芝居がかっている程に呻いたのは、そのゾワゾワする寒気を振り払うためだった。不満の込もった呻き声は決して弱々しくなく、私にまだ怒りを感じるだけの力が残っていることを教えてくれる。
(これくらいのことで、無気力になるわけにはいかない)
ひとしきり呻いた後、私は締めくくりに深く溜息をついて、そのままじっとしていた。
カチッ
カチッ
時計の針の音だけが聞こえる。
(よし……気が済んだ……)
私は仰向けになって、静かに天井を眺めた。
窓の外からは鳥の鳴き声が聞こえ、陽射しもまだ部屋の中を照らしている。
波打つような私の心とは対照的に、アンドレアの部屋は穏やかだった。
いったい何から考えればいい?
知りたいことが、あまりにも多すぎる。
私がここにいる理由、眠りについたアンドレア……。
この世界のこと、レンの不思議な力……。
そうした壮大で大がかりなことばかりではない。
目の前にあるアンドレアの婚約は、すぐに対処しなければならない“現実的”な問題だ。
(何が起こっているの? 私はどうすればいいの?)
ようやく色々なことに目を向けられる時間を得たのに、今、最も会って話しをしたいレンはそばにいない。
(後で会いに来てくれるって、言っていたのに……。でも、私はあれから2時間以上、エレノアに捕まっていた。時間がかかりすぎよね。もしかしたら、その間にもう帰ってしまったのかも……)
そんなことはありえない。
それがわかっていても、こんな風に嫌な方向へ考えようとするのは、やはり気持ちが弱ってしまったのだ。
「たいしたことはない」と片付けようとしたものの、エレノアと過ごした時間はそれなりにこたえたらしい。
扉をノックする音が聞こえて、私は起き上がろうとお腹に力を入れたが、アメリアが部屋に入ってくる方が早かった。
ベッドにいる私を見ると、彼女は心配そうな表情を浮かべ、静かにテーブルにトレーを置いた。
私をエレノアの元に案内したアメリアは、エレノアの「出ていきなさい」と扉を指し示す視線でさっさと部屋を追い出されてしまった。
だが、私が部屋の中でどんな時間を過ごしたのか、アメリアには容易に想像がついたようだった。
「お嬢さま……さぞ、お疲れのことでしょう。どうぞ横になっていらしてください。紅茶とクッキーをお持ちしただけですので……」
アメリアが運んできたトレーには、丸みのあるティーポットと金箔に縁取られたカップが載っている。よく見ようとゆっくり起き上がると、お皿にはクリーム色をしたクッキーが大量に積み上げられているのが目に入った。
甘い香りも漂ってくる。
「ありがとう。嬉しい……。ちょうど何か食べたいと思っていたの」
私は微笑んでお礼を言うと、テーブルに近づき、アメリアに勧められるまま椅子に腰を下ろした。
彼女が紅茶をカップに注ぐと、湯気がたちのぼり、爽やかな香りがする。
そっと一口、紅茶を飲むと、その温かさはあっという間に体中に広がった。しっかりとした味を舌に感じる。
「……アールグレイ?」
私が呟くと、アメリアは笑顔で頷いた。
(ここにはアールグレイもあるのね。本当に不思議……)
思いがけず、じんわりと目に涙が滲んだ。
紅茶の温かさに緊張がほぐれたのか、よく知っているはずのアールグレイの存在にセンチメンタルになったのかは、よくわからない。
私は涙に気づかれないよう、慌てて明るい声をつくりアメリアに話しかけた。
「今朝のあなた、とても嬉しそうだったわ……! 私の婚約を喜んでくれるのね。ありがとう……。あ……ロ……ローレンスさまがお相手で……本当に良いと思う?」
涙目を見せないように、私はアメリアの方に顔を向けないようにした。
目を伏せ、視線をカップに向けたままで、私は熱心に紅茶を飲み続ける。「今の私は紅茶に夢中」のアピールだ。
アメリアは息を深く吸い込んでから、思い切り力を込めて叫んだ。
「えぇっ! もちろんですわ! なにしろ『愛しの坊や』ですもの!」
それを聞いて、私は口に含んでいた紅茶を思い切り噴き出した。
咳き込む私の背中を、アメリアが慌ててさする。
「も、申し訳ございません! 嫌だわ、私ったらつい口が滑って……。どうか、礼儀に欠けるなんて思わないでくださいませ。この呼び名には事情が……」
アメリアはその後を続けずに、私が落ち着くのを待った。優しく私の背中をさすりながら、こぼれた紅茶を手際よく拭き取っていく。
呼吸も整い、私が問いたげにアメリアの顔を見つめると、それを合図に彼女はサッと扉の方へ視線を走らせた。
そして、わざわざ部屋の外まで向かうと、近くに誰もいないことを確認して戻ってきた。
アメリアは跪く姿勢を取り、私だけに聞かせたいというように身を乗り出した。




