伯爵夫人の望み
部屋の中をウロウロと歩き回りながら、エレノアはアンドレアがやってくるのを待ちわびていた。
その様子は娘の婚約に浮き立つようでもあったが、時に微かな苛立ちを滲ませてもいた。
公爵令息からの求婚を皮切りに、娘の「良家との結婚」が実現に向かって一気に突き進むと思っていたエレノアは今、レンにその道を阻まれようとしていた。
彼がこの結婚に対して懸念を抱いているのは明らかだった。元々、レンは地位や財産では人を見ていない。ローレンスが公爵家の人間であることは、彼にとって何の意味もなさなかった。
(あの男に邪魔されるのは、いったい何度目だろう……!)
エレノアは忌々しげに歯を食い縛り、レンの涼しげな瞳と憎らしいまでに整った顔を思い浮かべた。
(あの男がいなければ、とっくにわたくしの夢は叶っていた! アンドレアは言う通りに殿方に近づき、多くの好機を手にしただろう。「わたくしが思い描く結婚」こそが人生の目的だと、大人しく受け入れたはずなのよ! そうであれば、こんなに苦労せずに済んだわ。それなのに……娘に思慮深さを教えこむなど……あの男は本当に余計なことをしたものだ……!)
だが、結婚に消極的だったアンドレアが、ついに「申し出を受ける」と言ったのだ。
その事実はエレノアを非常に驚かせたが、同時に異常なまでの喜びも感じさせた。エレノアには、娘の承諾の言葉を撤回させる気は毛頭なかった。もちろん気の迷いなどとは言わせない。今さら「考え直したい」と言っても、耳を貸す気もない。だからこそ、大急ぎで公爵家に承諾の返事を出したのだった。
娘の心変わりを認めない以上、エレノアにとって最も重要な問題は、ローレンスに心変わりをさせないことだった。
(これからの時期……アンドレアの努力が何よりも欠かせない! 美しい女性なら他にも大勢いるのだから……。ローレンスさまが目移りすることのないよう、対策を立てなくてはならない)
エレノアは、娘が「未来の公爵」を虜にできるよう、徹底的に指導するつもりだった。口答えなど許さない。部屋に閉じ込めてでも、自分の言うことを聞かせる気だった。
そんな真似はスペンサー伯爵が許すはずもないが、エレノアは夫に隠し通せる自信があった。
なにしろこの広い屋敷には、目の届かない部屋がいくつもある。
だが、この屋敷にレンが留まることになってしまった。
彼の目を欺くことなど不可能だと、エレノアにもよくわかっていた。おまけに、レンという強力な庇護者が側にいることで、アンドレア自身も意思の強さを保ち続けるだろう。気持ちが弱ったところにつけ込むという、エレノアの術は通用しなくなる。
(あの子は……わたくしがいくら要求しても、受け入れ難いことは断固として拒否するだろう。レンがいる限り、娘をわたくしの言いなりにすることは叶わない。それに……)
エレノアは意味もなく扇を手に取ると、広げては閉じてを繰り返した。その顔には、懸念と悔しさが入り混じった表情が浮かぶ。
(そもそも……わたくしにはローレンスさまの心を掴む方法など、見当もついていないのよ……)
男性貴族の情報に精通しているエレノアにも、公爵令息は謎の多い存在だった。エレノアは社交の場で彼の姿を目にしたことがなく、夫であるスペンサー伯爵も彼女にわざわざ公爵家の話をする真似はしない。
妻が何のために男性貴族の情報を欲するのか、スペンサー伯爵は存分に理解していた。政略結婚に役立つ話など提供するつもりはなかったのである。
仕方なくエレノアは至る所で耳を澄ました。社交の場では、ことのほか男性貴族や富豪についての話が耳に入る。誰もが関心を持っているが故に、それも当然のことだった。
話には度々上がる公爵令息だったが、彼の功績ばかりが持ち上げられ、その人となりは見えてこない。
ローレンスが夜な夜な舞踏会やパーティーに顔を出すような若者であれば、女性の好みも推し量れただろう。だが、ほとんど社交の場に現れない彼を、どうやって知れと言うのだろうか。
あまりにもベールに包まれた公爵令息に、エレノアは苛立つようになり、投げやり気味に罵った。
(本当に“彼”は存在しているのかしら? 話に聞く全ては、人が勝手に理想を寄せ集めて作り出した、単なるイメージかもしれない。こんな立派な若者がいるとは信じられないもの。だって、公爵家の人間なのよ? 遊び呆けていたって、生活に困ることもない。それなのに仕事に勤しむなんて……もしかしたら、多くの者を惹きつける為に、完璧なご令息という噂を流したのかもしれない。「天下の公爵家」とでも印象づけるために……さすがね。実際のローレンスさまは平凡な男かもしれないわ。でも、それが何だと言うの? 公爵家の人間! それだけで充分ですとも!)
貴族や富豪は多かれど、エレノアが娘の結婚相手に望んだのは、やはり一番高い爵位を持つ公爵家の人間だった。
だが少し前から、侯爵家の令嬢イヴォンヌとの結婚が噂され始めると、ついにエレノアは、娘と公爵家には縁がなかったのだと諦めるようになっていた。
(あのイヴォンヌ嬢が相手では、なす術はないだろう)
そう考えるエレノアの眼差しは、随分と奇妙なものだった。
そこに嫉妬や悔しさはない。
むしろ、馴染みのある者に向けられるような、理解を宿していた。
侯爵令嬢イヴォンヌ。
彼女は輝くブロンドの髪とアメジスト色の瞳を持つ、まるで妖精のように可憐な令嬢だ。
彼女のことを考える時、エレノアは決まって「あの日」を思い出す。
スペンサー伯爵家で夜会が行われたあの日。
イヴォンヌも両親と共に、この屋敷を訪れていた。
人々の視線を浴びながら、彼女は愛らしい微笑みを浮かべていた。侯爵が娘を溺愛しているのは誰の目にも明らかで、娘にまつわる自慢話は途絶えることがなかった。
イヴォンヌが身にまとう甘い香りは、その場にいる者を惑わすかのようだった。そして、レースがあしらわれたドレスが誘うように揺れる度、人々は夢うつつの表情で彼女の姿に魅入った。
そんなイヴォンヌの妖艶さに、スペンサー伯爵が全く無頓着なのに気づくと、エレノアは呆れつつも、どこか誇らしかった。
イヴォンヌが優しくアンドレアに接するのを見て、伯爵は娘に良き友人ができたと単純に大喜びだった。
だが……。




