アンドレアの意思
アンドレアの姿が部屋の外に消えてからも、レンは扉から目を離さなかった。その深い眼差しに複雑な懸念が浮かんでいるのを感じて、伯爵の心を不安がよぎった。
(もしかしたら、ことは自分が思うよりも深刻なのかもしれない……)
そう思った伯爵の表情は曇る。
その美しさ故に、アンドレアが誰と結婚することになるかは周囲の関心の的だった。貴族の娘にとって、良家の者との結婚は、子供が成長して大人になるのと同じくらい当然の流れだった。そして、それは同時に伯爵令嬢たる者の義務でもあった。
当の本人は結婚に慎重な態度を取っていたものの、スペンサー家の一族は、彼女がこの義務を立派に果たすことを疑わなかった。
アンドレアになら、黙っていても良い縁談が押し寄せるだろう!
彼らは、一体どれほど好条件の男性が現れるかと噂話に花を咲かせた。
地位は? 収入は? 領地は?
どれほどの権力を持ち、どれだけ贅沢な生活をもたらし、どんなに周りに自慢できる存在なのか……。
だが、アンドレアにとって、地位や財産は結婚の決め手にはならなかった。
社交の場で多くの令嬢たちが独身の男性貴族に自分を売り込む間も、アンドレアはその輪に入らず、ぽつんとひとり佇んでしまう。
その様子を見た他の女性たちは、彼女を馬鹿にして笑った。
そして、なかなか娘の結婚相手が決まらず、周りの夫人たちからあからさまに嫌味を言われるようになると、エレノアはこの状況に我慢ならなくなった。
なぜ、娘はもっと積極的にならない?
その気になれば、何人もの男を手玉に取れるのに!
だがエレノアにどれだけ要求されても、アンドレアは虎視眈々と「優良」な男性を狙うような真似は決してしない。常日頃から母親に従うアンドレアも、譲れないものは絶対に守り抜いた。
アンドレアが思慮深くあろうとし、慎重な姿勢を貫くのには、ある大きな存在の影響があった。
彼女の最大の理解者であるレンだ。
彼は、上辺だけの条件で結婚相手を決めてはならないと、昔からアンドレアに言い聞かせていた。
来たるべき未来を見据え、結婚を決める時には「相手のことを貴族や富豪としてではなく、一人の人間としてよく見るように」と彼は教えていたのだ。
そして、レンのその忠告をアンドレアは決して忘れなかった。
実際のところ、アンドレアの美しさに惹かれ、近づいてくる貴族は多かった。だが、彼女にはありきたりな口説き文句が通用しないので、会話が続かない。
彼らの武器である地位やお金は、アンドレアの心を掴むにはなんの役にも立たなかった。
そして、アンドレアが求めていた「心のこもった中身のある会話」も、彼らは与えることが出来なかった。彼らが提供できたものと言えば、せいぜい取り繕った美辞麗句くらいだった。
貴族にとって、結婚は領地や財産を増やすための大事なツールだ。「本当に心惹かれる男性が現れたら結婚する」というアンドレアのスタンスは、この点において大問題だった。
このような考えは受け入れられるものではなく、実際にエレノアは、娘の意思を決して認めなかった。
だが、スペンサー伯爵は違った。娘を叱責したり、説得しようともしなかった。むしろ、娘を政略結婚の道具にすることを拒否していたと言ってもいい。彼は一族の中でも稀有な存在だった。
ジェームズとエレノア、この夫婦の間では、娘の将来を巡って静かなる攻防が何年も続いていた。
エレノアはアンドレアを舞踏会や夜会に送り出し、多くの貴族たちと交流をはからせた。その度に、伯爵は必ずレンを付き添わせ、娘の意に沿わない結婚を避けようと努めた。
伯爵の配慮は、あらゆる意味で幸いだった。身分や財産目当てで近づくのは、なにも女性ばかりではない。
一部の男性貴族にとって、スペンサー家の財産は狙うに値するものだった。そのうえアンドレアは美貌も兼ね備えているのだから、彼女に近づこうとする者は、いくらでもいた。
彼らの魂胆を見抜くことはアンドレアにもできたが、なかには巧みな話術で「自分こそが運命の相手」だと感じさせる者たちもいた。そんな彼らの本性を見抜き、長年に渡って彼女を守ってきたのはレンだった。
周囲の熱を帯びた期待とは裏腹に、アンドレアは常に結婚と一定の距離を置いた。不満と苛立ちを隠さないエレノアとは違い、伯爵はそれさえも良しとした。
スペンサー伯爵は、貴族社会にある傲慢さや、浅はかさ、貪欲さをよく知っていた。
娘が社交の場に出ることは致し方ないとしつつも、いくら身分が高かろうが、鼻持ちならない男に娘をやるつもりは毛頭なかった。
(いずれ娘が結婚を決める相手は、きっと純朴で目立たぬ男だろう。身分は高くないかもしれないが、娘が選んだのなら、心優しく器の大きい男に違いない。妻が不満だろうと、娘が幸せな日々を送れるのなら私は満足だ)
伯爵はそう考え、平凡だが穏やかな未来を想像していた。
だが……
アンドレアに結婚を申し込んできたのは、公爵家の令息ローレンスだった。
予想していた男とは正反対の、誰もが注目する華やかな存在。ローレンスに傲慢さや浅はかさがないのは、伯爵もわかっていたが、彼はあまりにも目立ちすぎた。
ほとんど社交の場に姿を現さないこの青年は、これでもかというほどに人々の興味を引いた。
既に富と名声、権力が約束された人物だ。それがどのような人間なのか。何を好み、何を望み、そして何が弱点か……彼に近づきたいと目論む者は、数えきれない。
彼に向けられるのは、敬意や憧れだけではない。羨望、嫉妬の眼差しもそこには入り混じり、時には敵意さえもが見え隠れする。
そんな彼の妻になれば、娘はどんな環境に身を置くことになるのか……。
公爵家の青年はたったひとつの申し出で、このスペンサー家に嵐を巻き起こしていた。
誰もが欲してやまない申し出も、娘の穏やかな日々を望む父親にとっては悩ましいものだった。
(この状況に妻が歓喜するのはわかる。だが……昨夜は「申し出を受ける」と不可解なまでの強情さを見せた娘が、今日は打って変わって大人しい。おまけにレンがこの様子では……)
「……珍しいな、君がそんな顔をするとは」
レンにそう切り出した伯爵の声は、緊張のためか幾分掠れていた。
「君はこの結婚に反対か……?」
伯爵の質問には答えず、レンは静かに言った。
だが、その目には、再び鋭い眼光が宿っている。それが彼の気持ちを物語っていた。
「アンドレアにこの件を伝えたのは早計でした」
伯爵はその言葉に驚き、目を見張った。彼は今聞いたことが信じられないとばかりに、身を乗り出した。
「娘に何も言わずに話を進めればよかったと言うのか? 勝手に断れとでも? 君らしくもない! あの子の意思を誰よりも尊重しようと努めてきたのは君だろうに……。それに……」
伯爵は口篭ったが、やがて呟くように本音を漏らした。
「私が娘に話したのは……きっとこの婚約を断るだろうと思っていたからだ。どうせ承諾することはないだろうと、安心しきっていた。あの子がこの伯爵家のことを気にかけているのは重々承知している。だが、まさか結婚まで受け入れるとは……いったい誰が予想できる?」
そう言って伯爵が俯いてしまうと、レンは思いやりに満ちた眼差しを彼に向けた。
「私も同感です。アンドレアがこの申し出を受け入れたことが不思議でなりません。いくらスペンサー家のためと言っても、よく考えもせずに結婚を受け入れるなど……ありえません」
「そうだろう? ローレンス殿と娘が会ったことがあるならば、互いに惹かれる何かがあったのかと納得もできようが……。面識があるのか尋ねても、娘は『舞踏会で踊ったこともないし、夜会で話したこともない』とハッキリ言った。だが、婚約を承諾した時のあの子の目には、初めて見るような強い決意が浮かんでいたのだ。いったい何を考えているのか……。きっと父親には話してくれんだろうな。……だが、君になら娘も胸の内を明かすのではないか? レン」
レンの顔に、一瞬だが動揺が走ったのを、伯爵は見逃さなかった。
(今は、アンドレアの気持ちを聞くことなど不可能だ……)
レンはその瞳に憂いを宿し、わずかばかり視線を落とした。
いまや、レンには気にかけるべき女性が2人いた。
一人は『眠りに落ちた』アンドレア自身。
そしてもう一人は、今この瞬間にもエレノアの容赦ない言動に耐えている女性……突然この世界にやってきた沙希だ。
自分の表情に浮かんだ動揺を伯爵に悟られたことに気づいて、レンは彼からの追求を避けようと素早く扉に視線を向けた。
「彼女とはこれからじっくり話し合うつもりです」
レンは伯爵に軽くお辞儀をすると、射抜くような強い視線で伯爵の目を一瞬だけ見つめ、勢いよく部屋を出た。伯爵が呼び止めることはないとわかっていた。
レンがこの態度を見せるのは、「今は何も言わず、成り行きを見守ってほしい」という意思表示だった。
伯爵との間にある、所謂「暗黙の了解」だ。
(いったい何が起きているのか、突き止めなければ……)
部屋を出たレンは、この屋敷全体を探るように目を閉じた。




