約束
伯爵は悩ましげに額に手を当て、レンの顔を見つめた。
「君にそう呼ばれると、嫌な予感がするな……。2人きりの時やアンドレアの前では、『ジェームズ』と名前で呼ぶ約束だ。……私に怒っているのか?」
レンは困ったように苦笑すると、表情を幾分和らげた。それに伴い、眼光の鋭さが消えて彼の目も優しくなる。
「怒っているわけではありません。ですが……奥さまに婚約の件を知らせるとは、随分と早まったことをなさいました。せっかく不在の時だったというのに……」
「知らせたのは私ではない……! エレノアの侍女だ。どうやら妻は私を信用していないようだな。何かあっても私が知らせないと踏んで、自分が屋敷を留守にする間は、あの侍女に嗅ぎ回らせていたようだ。まさかそんな真似までするとは……私の考えが甘かった」
伯爵は溜息をつきながら立ち上がると、私をまっすぐ見つめた。
「アンドレア……おまえは昨日、この婚約を受け入れると即決したな。おまえがこの伯爵家のことを深く気にかけているのは、私もわかっている。だが、もう少し時間をかけて考えろと諭しても、おまえは『気持ちは変わらない』の一点張りで、珍しく頑なな態度を見せた。それがどうも気になってな……。昨晩のうちにレンへこの件を知らせ、すぐに来てほしいと頼んだのだ」
伯爵はレンへ感謝の視線を向けた。
こうして屋敷に駆けつけてくれたことに、私も感謝の気持ちを感じた。もし彼が来ていなかったら、私はいったいどうなっていたことか……。
伯爵は腕を組んで、私とレンを交互に見ながら話を続ける。
「周囲に知らせる前に、まずこうして3人で話がしたかったのだが……。まったく……今朝、この部屋にいる妻を見つけて、私がどれだけ肝を冷やしたか。普通……ローレンス殿から私宛に手紙が届いたと聞いただけで、夜通し馬車を走らせて帰ってくるか? おまけに妻が大騒ぎしたせいで屋敷中に話が広まってしまった。外には漏らさぬよう皆に箝口令を敷いたがね。まだ他の貴族たちには知られたくないのだ……」
「結婚に対する奥さまの熱意と行動力は、並大抵のものではないですからね。あなたもよくご存知でしょう。いまさら驚くことではありません」
レンが横から口を挟むと、伯爵は再び椅子に腰を下ろし、今日何度目になるかわからない溜息をついた。
彼は一呼吸置くようにしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと話し始めた。先ほどよりもずっと冷静な声だった。
「……私は、何度かローレンス殿にお会いしたことがある」
伯爵はその姿を思い出すように、目をわずかに細めた。
「彼はなかなか立派な青年のようだな。とても聡明だと感じたよ。まだ若いが、公爵殿が重要な場に息子を同席させるのも理解できるし、周囲からの評判も良い。まぁ、ご婦人方に評判なのは、あの甘いマスクの方かもしれないが……」
まだ気が抜けない状況にも関わらず、私は思わずフッと笑ってしまった。
甘いマスクという言葉が、一連の会話の中では浮いていて、妙におかしかったのだ。「端正な顔立ち」とか「眉目秀麗」とか、もっと硬い言葉なら違和感もなかっただろう。
私の緊張をほぐそうとしての冗談かとも思ったが、彼は大真面目な表情だ。
それにしても……。
私はつい素に戻って、やれやれと天井を見上げた。
いったいどうなっているの?
美人で伯爵令嬢で、レンのような素敵な人がそばにいて……おまけに、結婚を申し込んできたのが甘いマスクの貴族?
仕事漬けでヘトヘトになり、夜遅くにひとり夕食を取る生活を送ってきた私にとっては、アンドレアの人生は恵まれすぎていて、感覚が麻痺しそうだ。
政略結婚だと憤った自分が、馬鹿らしく思えてくる。
会ったことはなくても、そんなに『素敵な公爵子息』なら、その評判はアンドレアの耳にも入っていただろう。政略結婚をする羽目になるのなら、彼が相手で何の不満がある? むしろ最も望ましい相手では?
でも……。
わずかに引っかかるものがある。
すると、私が抱いた懸念と同じことを伯爵が口にした。
「だが評判はただの評判。それが彼の本性を教えているわけではない。私自身、彼を立派な青年だと感じはしたが、ほんの数回お会いしただけだからな。おまえは会ったこともないのに、いきなり結婚というのは……私としては、やはり慎重にならざるを得ないのだよ。レンはどうだ? 君もローレンス殿に会ったことがあるのではないか?」
レンは奇妙な程の間をおいてから、静かに頷いた。
「そうですね。姿を拝見したことは何度か……」
それを聞いた途端に、伯爵は瞳を輝かせてレンの方へ身を乗り出した。
「君ならそれで充分だ! 君の目にはどう映った? 君の『その目』には……」
「……少なくとも、悪意があるような人物には見えませんでしたね」
レンの返答は驚くほどあっさりしたものだった。
伯爵はあまり納得していない様子で、もっと情報を欲しがっているのが明らかだ。彼はレンの能力を知っているし、それをかなり頼りにもしているのだろう。
私は違和感を覚えた。
レンなら、もっと多くのことが見えているような気がしたからだ。
でも、それなら、どうして言わないの? もしかして、あまり良くないことだから、伯爵には言いづらいのだろうか?
「他にはないのか? 君は表面上ではなく、もっと深い部分を見ることができるだろう? 彼と結婚して娘は幸せになれるだろうか?」
伯爵のさらなる問いかけにレンは答えず、かわりに別の問題を提起した。
「……今はローレンス殿のことを言うよりも、この先どうするかを話し合った方が建設的でしょう。既に承諾の返事を出されてしまった以上、三ヶ月後には婚約式が行われます。アンドレアに、『母親との約束』を守れと言うおつもりですか?」
私は「あっ!」と口を押さえた。
「ご、ごめんなさい。……私、きちんとお母さまの話を聞いていなくて……。あの……私はいったい、どんな約束に『はい』と言ってしまったのでしょう……」
実際は『はい』ではなく『はい?』だったのだが、エレノアの手にかかれば、疑問符の消去など容易いのだ。
レンがゆっくりと目を閉じるのに気づいて、私の胸に期待が満ち溢れるのを感じた。
彼がこうして目を閉じたなら、それは魔法のような何かが起こる時だ。そう、あの桜の花びらのように……。
だが次の瞬間、部屋に響き渡ったエレノアの甲高い声に、私は驚いて飛び上がった。
「婚約式でこの婚約が正式なものになるまでは、決して気を抜いてはなりません! ローレンスさまがいらっしゃったら、全身全霊で彼の望みに応えなさい。必ずですよ! 彼に対して、おまえの口から『いいえ』という言葉を出すことは許しません。おまえの身と心で彼との結婚を確実なものにするのです。わかったわね? アンドレア! わかったなら、返事を……」
「約束とは、これだよ」
レンが冷静に、しかし不快そうに言った。
彼はその力で、私が聞き損なったエレノアの声をそのまま再現してみせたのだ。
私は唖然とした。
体は硬直し、エレノアが言ったことの意味を自分自身に問いかける始末だった。
今のは……聞いた通りの意味よね?
言葉の裏に別の意味が隠されているわけじゃなくて、本当に文字通りに受け取って良いのよね?
……信じられない!
この世界で「今」がどんな時代かなんて知らないけれど、私にとっては時代錯誤もいいところだ。
アンドレアはれっきとした一人の人間だ。
彼女は、エレノアやローレンスの所有物ではない。「はい」も「いいえ」も彼女の自由だし、だいたい、彼女はローレンスの婚約者であって、奴隷じゃない!
もしローレンスが評判通りの人ではなく、ひどい人だったら、どうするつもりなんだろう。
アンドレアを「恵まれすぎている」なんて、私は随分と短絡的だった……。
「私っ……」
思わず私はそう言いかけたが、それと同時に、扉をノックする音が聞こえた。
振り返ると、遠慮がちに開いた扉からアメリアが入ってくるのが目に入る。
「お、お邪魔をして、申し訳ございません……! お嬢さま……あの、お母さまがお呼びでございます」
すかさず私と行動を共にしようと動いたレンを、アメリアが慌てて押しとどめた。
「レンさま! そ、それが……アンドレアさまのドレスの件ですので、男性であるレンさまにはお控えいただくようにと……エレノアさまが……」
レンに視線を向けると、彼は「仕方ない……」という眼差しで私に小さく頷いた。
嫌でたまらないが、私に他の選択肢はない。
大人しく扉に向かおうとする私に、レンが素早く近寄ってきて囁いた。
「あとで君の部屋に会いに行く」
私は扉を見つめたまま頷き、強張った表情でアメリアに向かって足を踏み出した。




