私は……
「ただいま」
そう呟きながら玄関の明かりのスイッチを押す。
一人暮らしの家だ。誰からも返事はない。
靴を脱ぐこともせず、そのまま壁にもたれかかると、シャラシャラと手にあるコンビニ袋が音をたてた。
そのまま目を閉じ、深呼吸するように息を吐き出す。すると、ようやく強張っていた肩から力が抜けた気がした。
既に夜の11時半過ぎ、夕食はこのコンビニ袋の中、そして残業続きでクタクタになった身体。
暗く沈んだ気持ちになりそうな条件だったが、気分が明るいのは今日が金曜日だからだ。
(あぁ! ようやくゆっくり眠れる!)
この2年ほど、平日は毎日3時間から4時間睡眠が続いていて、土日はほとんど寝て過ごしている。
せっかくの休日が寝ている間に過ぎていくなんて、もったいないのはわかっている。でも、寝なければ身も心ももたなかった。
(このまま玄関に倒れこんで寝てしまいたい!)
その誘惑に負けずに、力を振り絞って靴を脱ぐ。
今日の夕食は少し贅沢なんだ。
お弁当の他に、サラダ、それにデザートとしてモンブランも買ってしまった。夜遅くにこんなに食べるのは、ちょっと気になるけれど……。
本当は自炊が良いのだろう。でも、それは土日だけで精一杯だ。
夕食後は後片付けもほどほどに、お風呂と歯磨きだけはきちんとすませ、ベッドに入ったのは深夜3時を過ぎた頃だった。
(明日は何時まで寝ても良いんだ……)
そう安心したところで、私は気絶するように眠りについた。
(う〜ん……なんだかとても良い触り心地……)
ふっと目が覚めた瞬間に意識が向かったのは、手のひらに感じるなめらかな感触だった。
(……? こんなシーツ知らない……)
ぼんやりとしたまま目を開くと、見たこともない天蓋付きのベッドに自分が横たわっているのがわかる。
寝たままの状態で、探るように視線を周囲に向けていくと、目に入ってくるのは馴染みのないものばかりだ。
近くのテーブルには高価そうなランプが置かれ、部屋の中には白と金を基調とした棚がいくつも並んでいる。床には重厚な絨毯が敷かれていて、壁には絵画が飾られている。
(なんて豪華な部屋なの……)
良い気分で寝たからか、心地の良い夢を見たようだ。
ゆっくりと起き上がり、カーテンの隙間から入ってくる陽射しに誘われるようにして窓に近づいてみる。
だが、カーテンをもっと開けようと手を伸ばしたところで、ふとあることに気がついた。
陽射しがあたった顔や胸元がとても暖かい。それに、フワフワの絨毯を踏んでいて、足の裏が少しだけくすぐったいのだ。
(夢って、こんなに感覚があるものだったっけ?)
次の瞬間、ドアをノックする音が聞こえたかと思うと、一人の女性が飛び込んで来た。金色の髪をひとつにまとめ、爽やかな青い瞳はキラキラと輝いている。
今にもフランス語を話し出しそうな姿に反して、彼女は紛れもない日本語で叫んだ。
「おはようございます! お嬢さま! 先ほどお聞きしましたわ! 本当にこの度はめでたく……」
窓際にたたずむ私の姿を見て、彼女はピタリと動きをとめた。それがなければ、今にも踊り出しそうな興奮ぶりだった。
「……お嬢さま! いったいどうなさいましたの?」
あぁ、そうよね。これは夢だもの。西洋の世界風でも、私に理解できる日本語を話している。
(お嬢さまって私のことよね……? いったいどんな夢を見ているのよ、私は……)
「えっ……と……陽射しが暖かいなぁって……」
私はにこやかに微笑んだつもりだが、その女性はサッと表情を変えて、駆け寄って来た。
その勢いに反射的に逃げだしたくなったが、つい先ほど、口からでた自分の声に動揺していた。いつもの自分の声よりも、ずっと大人びた低めの声だ。
「まぁっ! いったいどうされたのです! いつもなら、とっくに身支度を整えられて、朝食になさる時間ですのに…」
いえいえ! 私は寝たいのよ!
夕方まで寝るつもりなの!
(あ、違う……これは夢だったか……)
もはやクラクラしてきたが、そんな私の手を彼女は優しく取ってベッドの方へと連れて行く。
そんな彼女の手の暖かさをはっきりと腕に感じて、さらに動揺が激しくなった。
待って……やっぱり夢にしては、感覚がリアルすぎる。
「きっとお疲れなのですわ……。急にこのような大きなお話が決まったんですもの。ですが、お嬢さま。そのお姿も美しく魅力的ですが、そのような薄着で窓際に立つのはお控えになりませんと!」
彼女の言葉に自分の体に目を向けると、たしかに……と納得してしまった。
これは……いわゆるネグリジェね。淡いグリーンの美しいワンピースで、レースがさらなる華やかさを演出している。
それにしても……体が全然違う!
元々肌は白い方だけど、今はもっと透き通るような白さだ。私だって均整のとれた体つきではあるが、明らかに身長がずっと高くなっている。
(そ、そうだ! 顔は?)
彼女の手から逃れるようにして、慌ててドレッサーへ向かうと、そこに映ったのは深い緑色の目をした美しい女性だった。
背中で束ねられている髪は、長く艶やかな赤銅色で、軽くウェーブがかかっている。
「お着替えになりますか? ご無理なさらずに、もう少しお休みになられても良いのでは?」
そうね、休みたい……休みたいわ。でも、この夢はなんだかおかしくて、休みたいなんて言っている場合じゃない。
これは夢……じゃない? 私の背中を支えてくれる彼女の手のぬくもりも……こんなにリアルに感じるもの。
私の強張った表情を心配そうに見ていた彼女は、何かを思い出したようで、パッと明るい笑顔を浮かべた。
「そうだわ! 今日はお昼にレンさまが会いにいらっしゃいます! なんて喜ばしいことでしょう……きっとレンさまがお力になってくださいますわ」
誰なの、そのレンさまは……。
「あ……今日は、できれば誰にも会いたくなくて……」
そう言う自分の顔がひきつっているのがわかる。
自分の状況もわからないなか、その誰かもわからないレンという人物に会うのは、怖くて仕方がない。
「何をおっしゃいますの! お疲れの時、悩み事がある時に一番頼れる方ですのに! それに、こんな時に遠慮するような仲ではございませんでしょう。きっとレンさまもアンドレアさまのことが気になって、会いにいらっしゃるのです」
あ……アンドレア?
まぁ……この外見には合うけれど、私は違う……私は……。
「それでは、いらっしゃいましたら、こちらにお連れいたしますね。それまでにご準備はできますか?」
気遣うように聞いてきた彼女に、私は反論する気力も出ず、頷くことしかできなかった。
この状況についていけない。彼女が言っていた「大きなお話が決まった」というのが何であるかの前に、私が今、誰であるかがわからないのだ。
「何かあれば、いつでもお呼びくださいね。このアメリアがすぐに参ります」
そう言って、まだ心配そうな表情をしながらも、彼女は部屋を出て行く。しかし、出ていく前に振り返ると、こう言って深くお辞儀をした。
「この度のご婚約、誠におめでとうございます」
こ、ん、や、く……?
パタン。
閉まった扉が記憶を呼び戻す。
そう、ほんの少し前、寝る数時間前に、私は玄関のドアを閉めたんだ。でも今、私の前にあるのは全く違う扉。
……ここはどこなの?
カチッ、カチッ。
金で作られた時計が、アメリアが去ってから既に数時間経過したことを伝えている。
クローゼットにあったのは、どれも煌びやかなドレスで、私はその中から一番地味に見える青いドレスを身につけた。
レンという人がどんな人物かわからない。
そもそも、男性か女性かもわからないし、このアンドレアとの関係性も知らない。ただ、遠慮するような仲ではないらしい。
そして、私……いえ、アンドレアは婚約したようだ。
……誰と?
朝食を運んで来てくれたアメリアに聞く機会はあったが、いったいどんな風に聞き出せるというのだろう?
「レンさまってどんな方? 私とレンさまは、どんな関係なの? 婚約って何の話?」
「なぜ……そのようなことを……ご自身が一番ご存知でしょうに……お嬢さま、お気を確かに……!」
……とアメリアが取り乱すのが容易に想像できる。
不審に思われずに聞き出せる質問なんて、まるで浮かばない。
コンコン。
ドアをノックする音に、心拍数が跳ね上がった。
「はい」
返事をする声が、わずかに震えている。
あれから数時間の間に、色々な感覚を確かめてみた。
肌をつねれば痛いし、窓を開ければ風が頬を撫でるのを感じる。朝食を食べれば、パンの温かさやスープの熱さを感じたし、具材のジャガイモやトマトの味もしっかりとこの舌に感じた。
退屈しそうな細かい作業をすれば、やがて意識がぼんやりして、気づけば目が覚めているかも。
そう思って、淡々とソファの模様をなぞったり、ゆっくり絨毯の糸を数えてみたが、夢から覚める気配などない。 それどころか、時間の経過と共にかえって意識が冴えてきている。
それは、これは夢ではないから……。
「レンさまがお見えです」
アメリアがそう言って部屋へ通したのは、グレーのローブを着た若い男性だった。銀色の少し長めの髪、濃い青色の瞳、そして彫りの深い顔立ちをしている。
「では、私は失礼いたしますね」
アメリアがささっとドアを閉めると、レンは私をじっと見つめた。
(あぁ、なんて言えば良いの? レン、と親しげに呼びかけるのが正解? それとも……私も『レンさま』と、さま付けで呼ぶ方が良いのかしら?)
私が口を開く前に、先にレンが言葉を発した。
そう、彼ももちろん日本語を。
「君は誰だ?」
だ……誰……?
そんなことを聞かれるなんて、予想していない!
深い沈黙が二人の間に流れた。
レンは確かにアンドレアに目を向けている。
だが、彼が見ているのはアンドレアではなかった。
レンの視線は強く、ごまかしや言い逃れが通用しないことがハッキリとわかる。
覚悟を、決めなければ……。
「……っ。……沙希。……私は……鈴宮沙希よ」
静かな部屋に、私の声が響いた。
私の声? それともアンドレアの?
いいえ、私は……アンドレアじゃない。
私は沙希……鈴宮沙希なのよ。