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エレナが目を覚ましたとき、そばにはサリーがいた。
「あれ、サリー? 私……寝てた?」
「気を失っておいででした。一時間ほどです」
「バゼルとカールセンはどうしてる?」
「二人とも出立しました。バゼル様はサウスブルク港に戻り、カールセン様はバゼル様の指示で中央へ報告に行きました」
「そうよね、あの……婚約破棄の手紙。夢じゃないのよね」
「残念ながら……」
エレナは自分がどれほどチャールズとの結婚を楽しみにしていたか痛感した。政略結婚が当たり前の世界で、チャールズは一人の人間としてエレナを魅力的に感じ、プロポーズしてくれたと思っていた。ウィステリア王国はすでに第一王子がベガ王国の第一王女を迎えており、婚姻関係にある。政治だけを考えるなら、ベガ王国の第二王子がわざわざ王族でもないエレナと婚約する必要はなかった。その理由なき婚約こそ、エレナの初恋を燃え上がらせていたのだったが。
もはや婚約は、一方的に破棄された。
「チャールズ王子に手紙を書くわ」エレナはサリーに言った。
「ご主人様の指示を待ったほうがよろしいのでは? バゼル様が馬を飛ばして報告へ向かっておりますし」
「お父様ではなく、私の問題よ。チャールズ王子は私宛てにあの手紙をくれたのよ。私が思ったことを書いて返事するわ」
エレナは書記係を呼んだ。今までは自分の手で書いていたが、もはやそんな気遣いは不要だと判断した。自分とは別の人間の手によって、冷静な怒りを伝えたかった。
「じゃあ始めるわよ。書きなさい。
拝啓。薄い紙には所詮薄っぺらな愛しか宿らないと痛感する今日この頃。チャールズ・ベガ様におかれましては、次なる恋の駆け引きに励んでいらっしゃることと存じます。
さて日頃から無頓着な私ではございますが、このままでは無頓着なまま人生を終えるかもしれません。チャールズ様から見捨てられ、私には生きる気力もありません。舞踏会で見た星々の行き先は、私たちの結婚式こそふさわしかったのではないでしょうか。
贈り物はいりません。ただ一目お会いできるなら、それ以上の幸福はございません。直接私の目を見て言ってくださりませんか。お前とは結婚しないと。なんのメリットもないと。
私はどこへでも行きます。日と場所をご指定ください。
末筆ながら、ベガ王国の繁栄を祈りたいところではございますが、もはやあなたごと消し去りたい気持ちでいっぱいです。必ずお返事をください」
書紀係は書き上げた手紙をエレナに渡した。「さがっていいわよ、ご苦労さま」とエレナに言われると、頭を下げて部屋を出た。エレナは満足げな顔をしてサリーに話しかけた。
「どう? 言い過ぎかしら?」
「いえ、むしろエレナ様にしては大人しいほうかと」
「言いたいことを言うからには可愛げもないとね」
「はい。エレナ様がチャールズ王子をお慕い申し上げていた気持ちがよく伝わります」
「自分で言っていても、そんな風に感じたわ――この破談で、私は捨てられた女になるのね」
「お気になさらないでください。エレナ様はなにも悪くありません。むしろエレナ様への同情が集まり、反ベガ派が盛り上がるでしょう」
「サリーはベガを憎んでるものね」
エレナのこの言葉にサリーは目を見開き、驚きの表情を浮かべた。同時に、心が温かくなるような感謝の気持ちも湧き上がっていた。
「エレナ様は私のような下々の人間のことまで本当によく覚えていらっしゃいますね。そうです、私は根っからのベガ嫌いです」
サリーは心からの言葉を述べた。
エレナはサリーに優しい微笑みを向け、その瞳からは慈しみの光が溢れていた。言葉にせずとも、今や家族の一員であることをサリーに感じさせていた。
「思い出すわ、ぼろぼろになったサリーをお父様がこの屋敷まで連れてきた日」とエレナは続けた。
かつてベガ王国の奴隷身分という過酷な運命に縛られていたサリーは、死力を振り絞って抜け出し、ウィステリア王国へ逃亡した。国境警備に追われる途方もない困難に満ちた道中で、サリーは飢えと疲労に苛まれ、もはや力尽きかけていた。しかし、まさに瀕死の状態で倒れたその時、偶然居合わせたダスタンがサリーの運命を変えることになった。ダスタンはサリーを助け、命を救ったのだった。
「あの日、ご主人様が拾ってくださらなかったら……わたしは死んでました」
「ウィステリアに奴隷身分はないけど、ベガはいまだに激しい奴隷制をしいてるわね。奴隷なんて身分、ナンセンスだわ。平民として雇って経済的に自立させるほうが、どれだけ街が潤うか」
「さようでございますね。大国のわりに経済が弱いのは、ベガという国の奴隷制度にあるのでしょう。サミュエル様から教わった受け売りですが」
「私も、サミュエルからの受け売り!」
エレナとサリーは互いに笑い合った。
「サミュエルとソラ、ちゃんと見つかるかしら」
エレナの顔に影が落ちる。二人の行方不明、別邸の襲撃、婚約破棄と立て続けに事件が起きていた。今日の出来事は、時代が変わる大きなうねりの始まりに過ぎないのではないか。そう思うと、ヴァレンタイン家やウィステリア王国を守るため、自分にできることはあるのかと、エレナは自問自答した。
「ではエレナ様、そのお手紙を使者に持たせますね」とサリーが言った。
しかしエレナは、手紙を見つめつつ
「いや、ちょっと待って」と制した。
「どうかなさいましたか?」
「私とチャールズ王子の婚約破棄は、まだ公にはなっていないわよね?」
「そう思います。公にされるときには中央広報部から新聞社に連絡が行き、翌日朝には国民の知るところとなりますから。少なくとも今日時点で知っている者はほぼいないでしょう」
エレナはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「馬を飛ばして、今夜中にベガ王国に入ってしまおうかしら。この手紙、私が自分でベガの城まで届けるわ!」
「エレナ様、国際情勢がどうなるかわからないので、危険ではないでしょうか。ご主人様もきっとお許しにならないでしょう」
「だーかーら! お父様のことは気にしなくていいの! 今朝の事件はバナームとのいざこざでしょう? だから”今のところは”ウィステリアとベガは同盟関係のはず。私の場合ウィステリアの紋章を持ってて行き来は自由なんだから、問題ないわ」
「たしかにおっしゃるとおりかもしれませんが……」
「でしょ? チャールズ王子……いや、あのクソ王子チャールズだって、手紙を届けにきたのがまさか本人だったら驚くはずだわ。約束なんかせずにこちらから出向いてやりましょう! サリー、あなたも付いてきなさい」
サリーは一瞬、自分がベガへ足を踏み入れることに対し不安を感じた。しかし、彼女は自分の不安にくよくよするよりも、エレナに尽力することのほうが大切だと考えを改めた。エレナに仕えることは彼女にとって誇り高き使命であり、そのためにはいかなる試練も乗り越えてみせると、心の中で意志を固めたのだった。
「止めても無駄そうですね。かしこまりました。支度します!」
エレナとサリーは夕食を終えたあと、本邸をこっそり出発するのであった。