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エレナとソラがサウスブルク港にある辺境伯別邸に着いたとき、使用人たちはいつもよりバタバタと行き来していた。
「騒々しいわね、なにかあったのかしら」
「ひとまず別邸の侍従長を呼んでまいりましょう」
ソラが別邸侍従長のサミュエル・テクをエレナの部屋に連れてきた。
サミュエルは古くからヴァレンタイン家に仕えるテク家の人間で、サウスブルク港の街で育った。ダスタン・ヴァレンタイン辺境伯の信頼が厚く、サウスブルク港に関わる事務全般を取り仕切っている。
老境を迎えたサミュエルは、額に汗がにじんでいた。彼の目元には深い皺が刻まれ、疲れた様子が見て取れた。
「ああ、エレナ様、お越しいただきありがとうございます。お迎えに参上できず、申し訳ございません」
「かまわないわ。ところで、なんでこんなに騒がしいの? なにかあったの?」
「実は今朝、ベルパールを収穫する船がバナーム王国の船に砲撃されました。現在、詳細を確認中です」
「はあ? うちの領内にまで攻めてきたってこと?」
「まだわかっていません。ただ、最新の情報によると領海と中立海の狭間あたりではないかと言われています」
サミュエルは地図を広げ、指でウィステリアとバナーム王国の境界をなぞりながら、エレナとソラに説明した。
「バナーム王国はかつて北西の山間に住む狩猟民族の国でしたが、最近変化が見られます。彼らは山道を整備し、海へのアクセスを向上させました。これにより、ウィステリアの領海との接触の可能性が高まっています」
ソラは地図をのぞきこみながら、
「このあたりの山は獣がたくさんいるため、簡単に踏み入れられるようなところではなかったはずです。なぜバナームのような狩猟民族が開拓できたのでしょうか?」
「それは……申し上げにくいのですが、ベガ王国の技術者がバナーム王国に派遣されていて、開拓を手伝っているという噂でございます。ベガ王国は巨大ですが、あいにく海と面しておりません。それゆえに山を拓く技術は発達しておりまして、なにかしら取引をして技術を輸出しているのかと」
エレナは地図の置かれた机を両手でバンっと叩いた。
「もしベガがバナームを支援しているなら、大問題じゃない!」彼女は怒りを込めて言った。「ウィステリアとの同盟はどうするつもりなの。戦争になったら双方向から攻められることになるわ」
「その点は大丈夫ではないかと思われます。まだ公にはされていないのですが、バナーム王国の第二王女とウィステリアの第二王子が結婚するという話も持ち上がっております。ウィステリアもバナームを国として脅威に感じているのかと存じます」
「うちの第二王子……? ああ、あのぱっとしない男ね。優柔不断でいっつもモジモジしたやつでしょ。あいつならいいわ。山賊の娘を嫁にもらったらいいのよ」
ソラはエレナの発言を聞いて、
「エレナ様、ご発言にはお気をつけください」と言った。
「あんたに言われなくてもわかってるわよ」
サミュエルはエレナを安心させようとしてか、真剣な表情のうちにも包み込むような笑顔を見せて、
「このたびベガ王国のチャールズ王子とエレナ様の婚姻が進んでおります。つまり、ベガ王国はウィステリアと一戦交えようと考えているわけではないと思うのです。それに、もともとウィステリアは第一王子がベガ王国の第一王女と結婚しております。両国は婚姻により同盟が結ばれていて、政治的な問題には発展しないはずです。ご安心くださいませ」
エレナはサミュエルの言葉を聞くと、親しみある笑顔に心が軽くなり、少しほっとした。
別邸で遊ぶエレナを小さい頃から見守ってきてくれたのがサミュエルであり、彼女にとって彼はまるで実の父親のような存在だった。エレナはサミュエルのやさしい眼差しと、綺麗な手が大好きだった。彼の手はいつもエレナを労わり、支えてくれる安らぎの象徴であり、心の支えだった。
サミュエルは辺境伯のそばでいつもサウスブルク港の運営を補佐していて、彼の先見の明には誰もが一目置いている。事務仕事であまり外に出ないせいか、サミュエルはサウスブルクの男たちの中では色白で、手の甲のきめがこまかかった。エレナは、サミュエルのやわらかく温かい手が頭をなでる感触が好きだった。子供の頃から別邸の執務室に忍び込んでは、サミュエルにそっと撫でられるのを楽しみにしていた。
「そうよね、サミュエルの言うとおりだわ。チャールズ様と私はずっとお手紙のやりとりをしているし、愛してくださってるわ。今朝だってお手紙が届いたところだし」
「お手紙になにか特別なことは書かれていませんでしたか?」サミュエルがエレナに訊く。
「今朝届いた手紙はまだ読んでないの。今日はこうしてベルパールの査察の仕事があったし、夜読もうかと思って……」
「さようでございますか。もしかしたらバナームに気をつけるよう忠告なさるような内容があるかもしれませんね」
「わかったわ。戻ったらすぐに読んでみるわね。あ、でね、サミュエル、ベルパールのことなんだけど――」
エレナが道中で押収した偽物のベルパールの話をしようとしたとき、部屋の外からドガドガバタバタと大きな音が響き渡った。
エレナたちのいる部屋の扉が突如開いた。
「エレナ様! 襲撃されています! 相手はおそらく十名ほど。山賊のように見えます」
別邸の武装メイドのうちの一人、サリー・シーレが息を切らしながら伝えにきた。彼女の長い髪は戦いの準備で後ろにしっかりと束ねられていた。彼女のメイド服は戦闘に適した動きができるように改良されている。彼女は屋内用の短刀を両手に持っており、きびきびした様子で扉のそばから別邸内を左右に見渡した。瞬時に状況を把握し、戦いに備える姿勢が感じられた。
エレナとソラも剣を抜いた。
サミュエルは普段は剣を扱わないものの、緊急時に備えて練習していた。彼は部屋にあるエレナの予備の剣を借り、慣れた様子で握りながら言った。
「もしかしたらバナーム王国の息がかかっているかもしれません……」
「とりあえず、みんなを守るわよ。ソラはこの部屋でサミュエルを守って」
「いえ、私も行かせてください。エレナ様になにかあってはいけません」
「バカね。十人や二十人くらいの賊では、私に傷ひとつつけることもできないわ。サミュエルのそばにいて。で、ベルパールのことも伝えて、今回の事態を整理しておきなさい」
「……かしこまりました。でも本当に危ないときは逃げてくださいね。約束ですよ」
ソラは心配そうな表情でエレナに言った。
エレナはソラの言葉を受け止め、微笑んで言った。
「わかってるわよ。じゃあ行ってくるね」