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一緒に逃げようと必死に訴える陸の両手を、美祢が掴んだ。
「なんですって?」
妙に声のトーンが下がった美祢に、陸はびくりと体を震わせた。
まずい、これは怒った時の彼女の声だ。
今まで何があっても陸にだけは女神のように優しかった美祢の逆鱗に、陸は初めて触れたようだ。
これが普通の状況であれば、朝桐姉弟にとっては「この日は初めて姉貴に本気で怒られた記念日だったね」などと笑って思い出を語れてしまいそうなくらいのビックイベントなのに、この時ばかりはただただキュッと身が竦んでしまう。
しかし、陸には何故彼女が怒ったのか分からなかった。
何か悪いことを言っただろうか?
「……姉貴? 何、怒っているの?」
「陸、よく聞きなさい。陸にはこの儀式を『ふざけた』なんていう資格はないわ」
「だって、おかしいでしょ。心臓を捧げるんだよ? 人を殺すんだよ? こんなの野蛮じゃないの? 残酷じゃない?」
美祢は深くため息をついた。
悲しきかな。二人には九年分の人生経験の差がある。彼女は前の世界に関して、決して全てを知っているわけではないが、少なくとも生き物の死をもって願掛けする文化についてはいくつか聞いたことがあった。
どこだったか忘れてしまったが、国の平安や豊穣を願うため、奴隷や勇敢な戦士を生贄として太陽神に捧げていた。巨大ピラミッドが有名な国でもそのような歴史がある。始皇帝が現れた国でも。そしてそれらは「残酷な風習」として後世に語り継がれている。
供犠を捧げることは、紀元前の遥か昔からあらゆる文化で行われてきた、普遍的な呪術的儀式であり、祈りの手法だ。神に捧げられたものは、大抵丁重に葬られるか、神からの授かり物として神とともに食らう。神と人の世界を繋ぎ、神の力を人の世界に分け与えた功労者だからだ。
しかしそれも、人間の感情が成熟して社会的なルールが次々と定められていくうちに、「死」や「流血」と言ったものを嫌悪し、タブー視するようになったのだろう。いつしか人や動物を捧げるのではなく、食べ物や置物といったものが神々に捧げられるようになった。
陸は心臓を捧げる行為に嫌悪感を抱いているが、それは違う。
聖女の心臓を捧げる行為と、寺社仏閣や聖地、墓にお供えをする行為の本質は変わらない。
そこに込められているのは、同じ『人々の願い』なのだ。
彼女は陸の手を引いてカウチに腰掛けると、ゆっくり幼子に話すように問いかけた。
「……陸。この儀式をふざけているなんて言うのは、この世界ではきっとあなただけだわ」
「そんなことないよ。国王様だって、第二王子様だって」
「国王様が本当に『ふざけた儀式』って言ったの?」
陸はぴたりと止まった。
国王も第二王子も。誰もそんなことは言っていない。
陸以外は誰もこの儀式を『ふざけている』などとは言っていなかった。
いたとすれば、心臓を捧げる行為に胸に痛みを抱え、可能であれば終わらせたいと考える者だけだ。しかも彼らは、陸に儀式を止められるものなら止めてみろと言っただけだった。陸の行動を止めようとはしなかったが、彼らも彼らの行動を止めようとはしなかった。
同時並行で物事は進み続けていた。
これまで、互いの目的が干渉し合わなかっただけだった。
「ねぇ、陸。よく聞いて。私はこの世界に戻った時に国王様から『心臓を捧げてほしい』って言われていたの。陸が目覚める前よ。それを承知の上で今ここにいるの。それに、生贄を捧げるのはこの世界だけじゃないわ。前の世界にもあった習慣なの。これは、一つの祈りの形なのよ。ほら、神社のお神酒とかお米とかと同じ、みたいな?」
「全然違ぇし! ……だって心臓だぞ? 酒とか米とかと一緒にするなよ」
「陸、ねぇ、お願いだからさっきの言葉は取り消して。これは決して残酷で野蛮でふざけた儀式ではないの。みんな真剣なのよ。私もそう。この儀式に私なりに向き合ってきたわ。私の心臓を捧げることで神様たちの助けを得ようとしている。疫病や天災、戦争を沈めようとしているの。生贄を捧げることで神様の力を求める、これはみんなの本気の祈りなのよ、陸。だから――」
――だから、人々の祈りを無下にするな。
――部外者が己の物差しや感覚だけで判断しようとするな。
――その儀式の本質や真の思いを見誤るな。
千年以上続く儀式の意義を「野蛮」とか「残酷」と評した弟に、美祢ははっきりと言った。
彼はその短い単語で、美祢が必死に果たそうとしてきた責務自体を踏みにじったのだ。
これが怒らずにいられるだろうか?
「陸。心臓を捧げるという行為は、陸には残酷で野蛮かもしれない。だって、そういう判断基準を持つ社会に育ってきたから。でも忘れないで。あなたの判断基準と、この国の判断基準は別物よ。あなたの『常識』だけで、そこに込められている人々の願いまで無視しないで。それに実際に、神様自身も皆の願いに応えているわ。……ここは前の世界とは違うのよ」
陸は泣きそうな顔になり、そして呟いた。
「……それでも、嫌だ。……死んでほしくない」
「陸……」
肉親が死ぬ。それは大きな悲しみであり苦しみだ。しかもそれが、例え神聖なる儀式であっても、他人の手による死であれば、殺人と変わらない。殺人は、できれば相手にも同じだけの痛みを味わわせてやりたいと、激しく願うほどの大きな出来事だ。
特に陸の場合には、幼い時から母親のように己の面倒を看てきた姉が殺されるというのだ。大の大人でも実母の死には大泣きする姿を、看護師という立場から幾度となく見てきた美祢ならその耐えがたい辛さが分かる。
しかしそれでも、この世界にも同じく家族を失っている人たちはいるのだ。それは戦争だったり、飢餓だったり、疫病だったり、何かの犯罪だったり。本当に様々な理由で多くの人が死んでいるのだ。
それらを鎮めるためにも人々は神の奇跡を願っている。
本当の儀式の姿を知っている人たちも、心中様々ながらこれに関わっている。
偉大なる神として称えられるウリテルも美祢の心臓を欲している。
そして、美祢自身もそれを望んでいた。
「ねぇ、人はいずれ死ぬものよ。みんな寿命まで生きるわけじゃないわ。病気とか、事故とかでいろいろあって死んじゃうの。私の場合には、たまたまそれが心臓を捧げる聖女だったからで、これはある意味事故とおな」
「~~~っ!! そんなの知らねぇよ!」
思わず陸が叫ぶ。
扉が開く音がして、誰かが掛けてくる足音がした。異変に気付いた女神官が入ってきたのだ。美祢が慌てて陸をベッドに押し込むと、何枚もの布で覆い隠す。
危機一髪。美祢がベッドに腰掛け、鼻歌を歌い始めた時に女神官が姿を見せた。
「ごめんなさい。歌っていたら興が乗っちゃって大声を上げてしまったわ。前の世界の歌なの。聞く?」
女神官が鈴を鳴らして答える。
「そう? 残念。ねぇそろそろ食事の準備をしてくれない? 今日はいつもより多めに用意して。明日に備えてしっかり食べておきたいの」
また鈴が鳴る。
女神官が部屋を出ていくと、美祢は布に包まれた弟の顔を解放した。
「陸、お願いだから大声は出さないで。あなた本当に殺されちゃうわよ」
泣いているのだろうか、顔を真っ赤にした陸が顔を背け、あえて別の話題を持ち出す。
「……あいつら、何で喋らないの?」
「さぁ、何でかしら。前から鈴でやり取りしていたわ」
「気にならないの?」
「別に。それよりも務めが忙しくて。ほら、お祈りとか」
「姉貴、真面目に答えてる?」
「ごめん……彼女たちは声が出ないの。声帯が潰れているみたいなのよ」
「三人とも?」
首肯する美祢も詳しくは知らないらしいが、三人の女神官は喋ることができない。少なくとも、美祢が上の神殿に住むようになってからは、普段のやり取りは鈴で行っていた。最初の頃は全く意味が分からなかったが、暫くすると大して苦でもなくなっていた。不思議なことに彼女たちの言いたいことが分かるようになったのだ。
どこまで踏み込むか悩みました。
異論は認めます。




