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 誰かを殺す覚悟ができているかと問うた男は、数日陸に話しかけなかったのだが、にわかに沈み始めた陸に気付いた。

 冷静になるための時間を与えたつもりだったのに、オスカの思惑とは違う状況に進みかけているので軌道修正を試みる。


「リク様、お茶でもいかがですか?」


 オスカはお茶を飲みながら陸と話していく中で、己が大事なことを失念していることに気付いた。

 彼らの世界と陸の元の世界では、死生観が大きく異なっていたのだ。


 アクララン王国では、割と簡単に人が死ぬ。しかも綺麗な死体だけではない。街道では盗賊に襲われた死体が転がっているし、うっかりすると獣や怪物が食い散らかしている。疫病や飢餓で見るも無残な状態で息絶える者もある。

 そんな人の死が割と身近な環境では、殺すという行為はあまりにも身近だった。その身近さ故、他者の死を軽く考え、簡単に人を殺してしまう場合もある。人が殺したくてあえて戦場に赴く者もいた。市井の中では犯罪でも、戦場に出れば大義名分を振りかざして、血の臭いと肉を貫く快感を思う存分楽しめるからだ。

 この世界では、生きるための手段の一つであり、娯楽でもあった。


 オスカは、まだ殺人の快楽に目覚めていない陸が、神殺しを経て心無い殺人鬼にならないためにも、「殺す」という言葉にちゃんと向き合えと言ったつもりだった。


 しかし、陸の世界では違った。


 彼の感覚では「死」とは特に老人に関わる言葉であり、実際に死体を見るのは病院や葬儀場など、あくまでも限られた環境の中だった。彼は数年前、とある家の和室で一人暮らしの老婆が倒れているのを見つけたが、それすら日常の光景ではなかった。

 死とは忌むべきもの。隠されるべきもの。

 そんな社会の中での「殺人」とは、平和ボケした人々にピリッとした刺激と恐怖を与えるスパイスのようなもの。あくまでもニュースで報道されるものであり、陸にはどこか遠い場所の出来事に聞こえた。


 陸も殺人を経験したことがある。だがそれは遊びの中でだ。平らなガラス面の上で指を滑らせれば、すぐに敵が死んで死体も消えた。たくさん敵を殺してポイントを獲得すると、画面の中のキャラクターが成長した。途中でゲームオーバーになったら、セーブしたところからやり直せばよかった。あくまでもゲームの中のキャラクターだから、プレイヤーに倒されるために存在しているから。

 実際の殺人など知らない陸にとって、人を殺すことなど非日常的なことでしかなかった。


 安全な国の、安全な街の一角で、雨風しのげる家に住みながら、戦争も疫病も飢餓さえも心配することのない生活を送っていた。

 かといって、陸が楽して生きてきたわけではない。

 歪んだ家庭環境の中でその心は何度もボロボロに傷付けられた。思春期特有の心の変化が影響して、唯一癒そうとしてくれた姉にも素っ気ない態度をとってしまった。

 アクララン王国に来てから様々な心の重荷から解放され、かなり回復した陸ではあるが、それでも時折辛くなることはあった。しかし姉の命を救うという大きな問題に意識を向けることで、何度もその辛さをごまかしてきた。


 心の死という点で陸の状況を理解できるオスカは、互いの常識の違いというものを噛み締めると、若者に酷なことしたと謝罪した。

 そして、殺人の快楽に堕ちてほしくなかったのだと、血の臭いに酔ってほしくなかったのだと、オスカは陸の目を見て訴えた。


「ですが、それは余計な心配でした。リク様。あなたは人の痛みを理解することができる方だ。……そんな方が、殺人鬼になどなるわけがありません。いざとなったら自分が……っ!」


 できるはずもないことを口走りかけた男は、己の思慮の浅さを恥じながら俯いた。


「……自分は、リク様を、信じております」


 何とも言えない感情が溢れてくるのに、陸は自分を信じるという男にかけるべき言葉が見つからない。

 己の語彙力の無さに歯痒い気持ちになりながら、陸は己の頬を張った手を見つめた。


(そういえば……)


 誰かに頬を叩かれたのは生まれて初めてかもしれないと思った。

 もう一年以上前になるが、大収穫祭で楽しんでいた陸の身に奇跡が起きた際には、ヤンから鉄拳制裁ならぬ鉄“杖”制裁を受けた。だがあれは顔ではなく腹だった。その後も時々杖で小突かれたりはしたが、あれを暴力と呼ぶには疑問が残る。

 あの老婆はあくまでも、不用意に喋ろうとする陸を諫めるために突いたのだから。


 記憶を遡る。

 姉だけは殺さないでと願ったあの瞬間から、息が苦しくなる記憶を少しずつ辿っていく。


 望まぬ母親の来訪。

 一人公園で野良猫を撫でながら過ごした夜の公園。

 酒が切れたことに腹を立てて物に当たり散らす父親。

 馴れ合いを嫌って一人で静かに過ごした学校の教室。

 部屋で息を殺して過ごした夜。

 畳の上で倒れている老婆を見つけた和室。

 母親が若い男と出ていった日。

 仕事の愚痴を延々垂れ流しながら酒を呷る父親。

 唯一心穏やかに過ごせた、山野辺のおばあちゃんの家。


 記憶による自傷行為をやめない陸の肩を大きな手が揺する。低い声が心配そうに名前を呼ぶ。

 陸は大丈夫だと手で制した。


(まだだ、もう少し。もう少しだけ……)


 陸はもっと古い記憶を呼び覚まそうと試みた。

 果たしてそれは本当に己のものだろうかと思うくらい、あやふやにしか覚えていない。

 三歳、あるいは四歳。

 いいや、もっと幼い。

 二歳。あるいはもっと幼い……。


『……陸!』


 記憶にある声が、記憶にない溌溂とした声で呼びかける。


『お前の名前は陸。

 大地でも良かったけど、こっちの方が一文字でかっこいいからな。

 全てを支える陸地のように人々を支える、そんな頼りある大きな男に育ってほしい。

 そう願ってこの名前にしたんだ』

『やだ、正也。そんなこと、こんな赤ちゃんに今から言っても仕方ないでしょう?

 大きくなってから、話してあげればいいじゃない』

『いいんだよ。俺は今から言いたいんだ。「陸」、何度呼んでもいい名前だな。陸、陸!』

『もー、親バカにも限度があるんじゃない? ねー、陸ちゃん』


 姿は見えない。声だって聞いたことがないくらいに甘い響きを孕んでいる。

 もしかしたら都合のいい己の妄想かもしれない。


 上半身の筋肉が一気に委縮するように縮まり、陸は机に突っ伏した。


「お、スカ様っ……ぉ、俺っ……俺っ……」

「リク様、どうしたのです、リク様」

「俺っ……親に、殴られたこと、ない……姉貴にも……」


 ほんの数日前、張り手を食らわせた男は一瞬固まると、心底気まずそうな顔をした。

 肉親にも殴られたことないのに、異世界の赤の他人がやらかしてしまった。そのショックが時間差で今表出してしまったのだろうか。


「本当に申し訳ありま」

「違うんです!!」


 陸は食い気味にオスカの謝罪を遮ると、むしろ感謝しているのだと机を叩いた。

 泣きはしていないがその半歩くらい手前の顔で、感極まっている。


「オスカ様が気付かせてくれたんだよ! 俺! 今まで一回も親から殴られたことがないって! ヤンのばあちゃんから杖で殴られたりはしたけど、それとはちょっと違うっていうか!」


 それどころか記憶の彼方にあった両親の深い愛情に関する記憶に触れた。

 もしかしたら幻聴かもしれない。妄想かもしれない。願望かもしれない。


 しかし、殴られた記憶は、ない。

 単純に、忘却しただけかもしれない。


 だが陸の記憶にある朝桐家とは、荒んだ家庭環境だったのだ。一度でも手が上げられていれば、常習的に暴力が横行していてもおかしくない。それなのに、いくら記憶を探っても、正也が陸を殴る、あるいは美祢を殴るという情景は思い浮かばなかった。

 確かに何度も美祢を庇った。しかしそれは、父親が当たり散らすクッションとか、新聞とか、木製の飾り物とか。当たっても比較的ダメージが少なそうなアイテムが飛んでくるのを庇ったのだ。


 はっきりと朝桐正也が子どもたちに手を上げようとしたのは、不思議な光が姉弟を包み込んだ、あの瞬間だけだった。



 ガラガラと大きな音を立てて、今までの前提が覆る。


 ずっと両親の愛情など感じたことがないと思っていた。

 肉親の中では姉だけが唯一の救いだと思っていた。


 何がどうとか、上手く言えない。


 忘却しているだけなのかもしれないけれども、自分を大切に思っていなかったはずの親から殴られたことがないことが。

 勝手な妄想なのかもしれないけれども、記憶の片隅から聞こえてきたあの声が。


 頼りなかった陸の内面にある、彼の土台を強化する。

 それはまるでブヨブヨと液状化していた土台が固まるような変化だった。


 少しずつ顔を上げる気になってくる。

 朝桐陸という人間を支える心理的な材料が増えた気がする。


 しかし相変わらず、誰かの命を奪うことに関して自信はない。

 怖いし、できればやりたくない。自分の手を汚すなんてまっぴらだ。


「……小心者って思われるかもだけど、俺、殺すのはやっぱり嫌だ。誰も殺したくない」

「誰かを殺そうとするのは怖いものです。小心者など言うわけがありません」

「その覚悟を決めてるオスカ様に言われてもな」

「ハハッ。リク様は思い違いをなさっている。自分には、許す覚悟がないのですよ」


 復讐心を心のうちに秘めた男が言う。

 憎むよりも許す方が難しい、と。いっそ憎み続けている方が楽なのだ、と。


「そういうもんなの?」

「そういうものです」


 首肯しながら、オスカは陸の言葉遣いが乱れていると指摘した。


『言葉遣いは美しく』


 これが老魔術師ヤン・ノベの教育方針だった。


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