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女神ウリテル。英雄アクララン。女神セネア。
過去の偉大なる五人の聖女たち。朝桐美祢。朝桐陸。
赤い文字でノートに書かれた彼らの名前を眺めながら、陸は考えこんでいた。
三番目の月の聖女の日に、女神ウリテルに聖女の心臓を捧げるようになった流れは、恐らく推理ができた。答え合わせがまだだが、ほぼ間違いないだろう。
兄の恋人の激しい嫉妬心から、何度も心臓を食われては、セネアだって「この呪いを終わらせて」と縋りたくなるはずだ。
ではどのように呪いを終わらせるべきか?
夢の中でもセネアや美祢が「陸ならきっと終わらせられる」と言っていた。
海の神様を殺したアクラランのように、異世界の人間であればこの世界の神様を殺すことができると思われる。
しかし、殺すためには武器が必要だ。
「あっ」
昨年の誕生日プレゼントで送られた、あの素晴らしい装身具たちが浮かんだ。陸が神殿に入る時に、断世の儀を経るかもしれないからとオスカに預けてそれっきりだった。身に着ける機会がなかったので仕方ない、と言わせてほしい。
オスカに聞いてみると彼はすぐに返してくれた。
預けている間磨いていてくれたのか、近衛隊隊長が贈ってくれた短剣は鋭い輝きを放っていた。これだけ鋭利な刃物であれば、背中まで貫けるはずだ。
頼もしい武器を手にして表情が明るくなる陸に、オスカは軽く手を挙げた。
「一つ確認させてください。リク様はこれまでに人を殺したことがおありですか?」
あるわけがない。
素直にそう答えると、大神官補佐は難しい顔になった。
「リク様。これまでに何度も『殺す』と仰っていましたが、その意味がどういうことかご存じですか? 誰かの命を奪うというその重みを、認識されていますか?」
「い、今更そんなの言われても。分かっていますよ、殺すって意味くらい」
「いいえ。駄目です。しっかりと考えていただかなくては。あなたはこれからただの人殺しではなく、神殺しになろうとしているのですよ?」
人殺し。
神殺し。
その音の羅列が、急に残忍な響きを帯びてくる。
「人の死体を見たことがありますか?」
それはある。
昔、まだ彼が幼い時に、元の世界で。一人暮らしの老婆の家で。
あるいは夢の中で。水死体も、惨殺された死体も見たことがある。
「むせ返るような血の臭いを嗅いだことがありますか?」
血の臭いなら嗅いだことがある。
例えば学校でケガをした時や、家で包丁を使っている時。転んだ時や、剣術指導で切り傷を作った時に。
ただしそれがむせ返るほどの臭いだったかと言えば、否だ。
「人を刺したことがありますか?」
ない。
殺したいと思ったことはあるかもしれないが、実際に誰かを刺したことはない。
「リク様、よくお考え下さい。あなたはこれからご自身の姉君の命を救うために、少なくとも一つの命を奪うのですよ。恐れずにその短剣で貫けますか?」
まるで、命のシーソーゲームを試されているかのような問いかけだ。
目を逸らして「できる」と不貞腐れたように呟く陸に、オスカは初めて手を上げた。
パシンッ!
じわじわと痛みが広がる頬に手を当てると、陸は自身に暴力を振るった男を見上げた。
オスカのエメラルド色の双眸には、暗い光が宿っていた。
怒っている。それも激しく。
「リク様。ちゃんと直視してください。あなたは誰かを殺す覚悟ができていますか? 大切な人のために罪を犯す覚悟はできていますか?」
「っ……」
すでに何年も前からその覚悟を決めている男からの本気の問い掛けに、陸は息を呑んだ。
「相手は獣や魔獣ではありません。リク様が立ち向かおうとしているのは人と同じ言葉を話し、人と同じような姿をした貴き存在です。そんな存在から、泣きながら助けを求められても、あなたはその息の根を止められますか?」
植物園に置かれた石像が動き、瞳のない両眼からはらはらと涙を流し、陸に縋りつくイメージが浮かぶ。
やめて、お願い、殺さないで。助けて。
そう必死に訴えかける中性的な面立ちの真っ白い石像に、この短剣を突き刺せるか?
できる。
脳みその前の方でそう叫んでいるのに、脳みその中心部分では無理だと喚いている。
息が詰まる。
自分の覚悟の無さが露呈した。
「っ……で……きま、せん」
磨かれた刃に映る情けない自分の顔を見たくなくて、陸は鞘に短剣を戻した。リンゲンから贈られた大切なプレゼントであるはずなのに、嫌なものを触ってしまったようにサッとテーブルの上に置く。
これまで軽い気持ちで何度も「殺す」と口にしてきた。脳内ではその百倍も千倍も万倍も使ってきた言葉だ。
それが急におぞましくなる。
両手が血に濡れているわけでもないのに、不快に濡れた感触がして慌ててローブで拭う。じっとり滲んだ手汗が、歪な手形を残した。
「……できません」
「リク様」
陸の頬に張り手を食らわせた男は、俯く若者の頭を撫でた。
「先ほどは叩いてしまい、申し訳ございません。……しかし、理解していただきたかったのです。誰かを殺すのは恐ろしいことだと。人を殺すたび、自分の心にも傷を負うのです。罪を背負うのです。どうかその恐れを忘れないでください」
男は再び陸に短剣を持たせた。
「リク様。ご自分を信じてください。クルトは……ルドルフは、あなたに無意味な剣術を教えたとは思いません。確かネフィウス殿下にも手ほどきを受けたと仰っていましたよね。あの二人ならリク様に、命は奪っても、命を軽んじる戦い方を教えたとは思いません」
リンゲンとネフィウスが陸に教えた剣術は、どちらかと言えば護身術に近かった。積極的に敵の命を奪いに行くための戦い方ではなく、あくまでも自分の身を守ることに徹した剣の振り方だった。
そのことを知っているような口ぶりに、陸は確かめずにはいられなかった。
「……オスカ様は、誰かを殺したことがありますか?」
「はい」
短い肯定に、まだ十八年くらいしか鼓動を刻んでいない心臓が跳ね上がる。
「誰を?」
「最初に殺したのは、自分自身の良心です。復讐を決意した時に。もう一人は、名前も知りません」
手にかけたのは、名も知らぬ中年の神官だった。オスカが神殿に入ってから数年経った、まだ彼が十代前半の頃。何かの拍子で見た目をごまかす魔法が解けてしまったのだ。幸いなことにその場にいたのはその神官一人だったが、秘密をばらされたくなければいうことを聞けと物影に連れ込まれた。そこは長らく放置された物置部屋の一つで、整理もされておらず床にも雑多なものが転がっていた。
興奮する相手に抗おうともがいていると、錆びた棒を掴んだので、それを無我夢中で相手に突き刺した。相手は刺されたショックなのか意識を失い、暫く放置していたら、ビクビク痙攣して息をしなくなった。
記憶のごみ箱の中に捨て去ったはずの思い出話をすると、陸は正当防衛だと主張した。自ら進んで殺人を犯したわけではないのだから情状酌量の余地があるはずだと。
「それでもリク様、人を殺したことには変わりません。でも後悔はしていないのですよ」
罪を背負うことにはなったが後悔はしていない。
陸にはその考え方が理解できなかった。
それでいいとオスカは思った。
できればこのまま人殺しの罪も知らなければいいのにと願う。
彼には分からなくていいこともあるのだ。
あの日あの男を殺していなければ、今の彼はこの場に存在しなかったことだろう。
あの忘れ去られた倉庫の中で、鉄臭い液体を全身に浴びながら、呆然と人が死にゆく様子を見ていたオスカを助けたのは、眼鏡をかけた一人のコボルトだったのだから。




