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「少なくともこの世界には、人の記憶と記録を改ざんし、過去を隠そうとする存在がいます。ノッガーもそれは認めていました。そいつが女神ウリテルなのか、世界の創造主なのか。彼なら、彼らなら知っているのではないでしょうか?」
いざ陸が女神ウリテルに立ち向かっても、彼女が「世界の創造主」であり「記録を改ざんする者」であり「人を神にする者」であれば、到底敵いそうにない。
しかし、そうではなかったら?
老魔術師が言っていたはずだ。この世界では神様であっても死ぬ。
ならばそこに勝機を見出せるのではないか?
アクラランが海の神様を殺したように、陸にも女神ウリテルを殺せるのではないか?
「……あぁ、ルカス……よくも、こんな、とんでもないものを……」
空を仰いで想い人に恨み言を呟く男は、両手で顔を覆った。何度もゆっくりと深呼吸をし、そのままの体勢で陸の名を口にした。
「リク様は、以前、自分に『何故ここまで付き合ってくれるのか』と問いましたね?」
「? はい。第二王子様に頼まれたからだと答えていましたよね?」
「えぇ。……でも、それだけではありません」
「え?」
両手の力を抜き、だらん、とぶら下げた男の顔がゆっくりと元の位置に戻る。
途端、陸は命の危機を感じて身を強張らせた。
(なっ、なになになになに?!)
尋常じゃない狂気がオスカから放たれる。
ヤバい。これはヤバい。マジでヤバい。生存本能が赤ランプをバンバン回転させてサイレンまで鳴らしている。
「リク様にだけ、この秘密をお話ししましょう」
「な、ななな、なんでしょう?」
口調は穏やかなのに、いつもと変わらないのに、背後にどす黒いものが見える。
(もしかしてこのまま殺される?)
ねっとりした汗がこめかみを流れ落ちた。
「まず、リク様。自分はこのままお付き合いします。徹底的に暴いて、この忌まわしい禍根を断ち切ってやりましょう」
「は、はいっ」
「さっきまではリク様の心配をしていましたが、心が耐え切れなかったのは自分の方でした。大変失礼しました」
「い、いえっ、こちらこそ……」
「これで国王への復讐が叶うかもしれないと思ったら、胸が歓喜で張り裂けそうです。感謝します」
「そ、それはっ……え?」
それはどうも、と言いかけて、止まった。
国王への復讐。
この男はそう言ったか?
「自分が神殿に入った最初のきっかけは、国王クレイオスに対する復讐心を抑え込むのと同時に、いつかこの恨みを晴らすためです。あの男は我が父の仇なのです。……しかし、たかが一庶子が世話になったリンゲン家に『国家転覆を画策した一族』の汚名を着せるわけにいきませんから。不死身の相手に無茶な行動を起こさないためにも、簡単には身動きができないこの神殿に入ったのです」
「でもルカス様への想いは?」
「えぇ、確かに。自分の愛しい人は、憎い男の実子です」
入り乱れる愛憎。
心を全て捧げてあとは尽くしたいと言っていた男の本当の気持ちは、他人が考える以上に複雑だった。
以前、オスカはただルカスに愛を捧げ尽くすだけでいいと言った。
彼はルカスの愛も求めていないと言った。
お互いの身分の差があるから、報われない思いなのだと言った。
陸にはそれだけではない気がした。
――きっと気持ちを伝えてしまえば、復讐の決意が鈍ってしまう。
彼はそれを恐れているのだ。
「聖女の日の儀式で神ウリテルの祝福を受けた国王は不死になりますが、次期国王が決まると神の祝福は現王から失われます。つまり、ただの人になるのです。自分はその瞬間にあの男を殺してやろうと思っていました。
家名を捨て、神官になれば、リンゲン家には影響が及びません。自分はただの一神官『オスカ』として国家転覆の罪に問われ、英雄アクラランの血族を穢した罪で全ての記録から抹消されるだけです」
「全部の記録が抹消って……」
大したことがないように言っているが、全ての記録が抹消されてしまえば、オスカがこの世に存在した事実が消えてしまう。
それを重々覚悟で、長い時間をかけて国王の暗殺を企ててきたという。
陸は改めて、家名を捨てることの大きさを思い知った。
ただ単純に貴族の責任を放棄するだけではない。
家名を捨てた者は、家族だった人たちからも排除されてしまうのだ。
「埋葬もされません。墓ももちろんありません。そうなったら自分の魂は永遠に救済されずに苦しむことでしょう。しかしそれで構わないと思っていました。親友だったはずの父を見限り、のうのうと生き続けているあの男が、己の過ちの代償を知るにはそうするしかないからです」
国王クレイオスに理想の父親像を重ねていた陸は、どんな言葉を発するべきか分からない。
朝桐正也を殺すというのであれば、陸の気持ちもまだ冷徹であったかもしれないのに。
「リク様は、こんな自分の本心を知って、止まりたいと思いますか?」
意地悪な質問だ、先ほど陸はもう止まらないと見ていたくせに。
「……いいえ。止まりません」
「それは良かった。ありがとうございます」
先ほどまでの殺気が霧散し、いつものオスカの雰囲気に戻る。恐ろしいほどの変わり身の早さだ。
「さて、早速ですが、ノッガーたちに聞いてみましょうか」
いそいそと個室を出ていくオスカの後姿を眺めながら、陸はとんでもない人間と組んでいたのだとようやく実感した。
結論を述べる。
少なくとも、女神ウリテルは世界の創造主ではなかった。
建国伝説には創造神として描かれているが、実際にはそれは別に存在する世界の創造主と混同して語られているだけだった。
記憶や記録を改ざんしたり、人を神にしたりについては、ノッガーらコボルトもどのように説明すればいいか分からなかったらしい。肯定も否定もできるのだと眉尻を下げていた。
不完全燃焼ではあるが、少なくとも一番厄介な存在ではないことに陸は胸を撫でおろした。もしもウリテルが世界の創造主であったなら、また「うっかり」世界を水没させてしまうかもしれない。
それだけは絶対に避けなければならないのだ。
とりあえずその日はもう頭を使う作業はやめて、自室に帰ることにした。
オスカも先ほど見せた狂気はどこへやら。いつも通りに陸と別れていった。
適当な時間に食堂に向かう。遅い時間に行ったためか人はまばらだった。聖女様の弟君仕様のローブはすっかりくたびれ、ところどころ解れている。
あと二カ月ほどしか着ないのだからもう構わないと、陸はちょろんと出た糸くずを指で引きちぎった。
――世界は一枚の布のよう。
(あれはどういうことだ?)
一枚目の石板に刻まれていた言葉だ。もしかしたら意味がないのかもしれない。
単純に、布に書かれた地図のことを言っているのかもしれない。
(多分、そういうことだよな。布に地図を書けば、『世界は一枚の布のよう』とも言えるし)
いつもよりフードを深く被り、皿の上に覆いかぶさるようにして食事をする。行儀は悪いがこれがここでの普通なのだ。
陸は配給された豆のスープと固いパンを口の中でふやかして飲み込んだ。あまり美味しいとは言えない食事を済ませ、口直しにと、同じく配給された果物にかぶりついた。
明るい紫色の果実。
ミティウェア原産で、アクララン王国ではよく食べられている。リンゴのような見た目に洋ナシのような食感。最初は毒々しい見た目をしていると思っていたが、その甘味を知ってしまえばどうってことない。陸も割と好きな果物だ。
全てを食べ終わり、果汁で汚れた手と口元をハンカチーフで拭う。
(……『世界は一枚の布のよう』)
うっすらと紫色に汚れた白い布切れを広げてから、陸はそれを丁寧に畳んでポケットに突っ込んだ。




