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プロローグのその後 後編

 一軒の住宅に灯油を積載した特殊車両が突っ込んだ事故から一週間ほど経過した。

 事故の原因は、運転手が急性心筋梗塞になり意識を失ったためだった。噂では半身に麻痺が残ったが命に別状はないらしい。事故を起こした運転手の家族が、朝桐正也の病室を訪ね泣きながら土下座して謝罪した。

 病院側は事故の被害者、加害者ともにマスコミから徹底的に守った。治療の妨げになるからと一切面会謝絶にしたのだ。そのことで別の意味でも問題になったが、患者第一を掲げる医院長の方針に揺るぎはなかった。


 現場検証の結果、やはり朝桐姉弟は見つからず、もしや家出ではないかと警察は疑い始めた。以前から正也の精神状態が不安定なことと、美祢が看護師として必死に働いているのを近所の住人たちが知っていたのだ。

 あかりは自分を責めた。


(あたしが正也をちゃんと支えてこれなかったから、家族がおかしくなってしまった……!)


 美祢の財布に残されていた、まるで物語の一場面のように美しい思い出を見返す。


(もう逃げない……ちゃんと家族と向き合う)


 事故から一週間経っても、正也は目覚めなかった。あかりはあの日からずっと彼の目覚めを祈っている。


 彼らの出会いはとある合コンで、付き合うきっかけはあかりの一目惚れだった。若い時の正也は少々初心な細マッチョで、照れくさそうに鼻を掻く姿が彼女のドストライクだったのだ。若かりしあかりは狩人だった。さり気なく連絡先を交換し、友人たちの協力を得ながら紆余曲折を経て、穏やかで真面目で、少し抜けたところのある正也の心を見事射止めた。付き合いたての頃は愛情表現が下手くそで、そんなところも可愛いと思っていた。少々不器用だった細マッチョは、やがて見事に「妻が命」の愛妻家に育った。

 夫の知らないところで「計画通り」とうっとり愉悦に浸っていたのは、朝桐あかり最大の秘密である。


 酒と心の病ですっかり弱り果てた元夫の頭を撫でる。

 こんなにみすぼらしい姿になっても、やはりどうしてもこの人が好きだと思った。きっと正也がよぼよぼのおじいさんになってもこの気持ちは変わらないのだろう。惚れた弱みにも程がある。

 これほど愛しているのに、夫とその間にできた子どもたちを捨てて、自分は出ていったのかよく分からなかった。

 魔が差したというのは言い訳がましくて、無責任で、情けなかった。


「……ム、ぃね……り、く……」

「……あなた? 正也?」

「ぁ、かり?」

「そうよ、あなた。……ごめんなさいっ、ごめんなさい! 良かった、目が覚めた!」


 あかりは正也のベッドに縋って泣いた。安堵と罪悪感といろんな感情がごちゃ混ぜになって収拾がつかなくなっていた。


 病院で過ごす時間が経つにつれ、正也はあの時何があったのか途切れ途切れに語るようになった。その内容はにわかには信じられないものだった。



 あかりが美祢の財布を奪って出て行ったあの瞬間、正也の中にどろどろとマグマのように怒りの感情が湧いてきた。それは彼の体の中を満たし、彼は「自分のせいじゃない」という思考で頭がいっぱいになった。

 ガラスを踏んだことさえ覚えていなかった。

 とにかく目の前の異物を殺さなければと瓶を振り下ろした。


 その瞬間、抱き合う美祢と陸の周囲に光る円陣が現れたのだ。円陣が現れたのはほんの一瞬で、次の瞬間には玄関の三和土に向かって振り下ろされたガラス瓶が砕け散っていた。


「……え?」


 状況を整理する間もなく、あの車が家に突っ込んできたのだ。



 陸と美祢が光に包まれて消えた。

 その話を聞いた警察は、正也に麻薬検査を受けさせた。


 結局、正也にはアルコール依存症の傾向があるだけで、リハビリ次第で回復すると医師の診断を受けた。ただし、回復するといっても今後酒が飲めるようになるかは未知数だ。正也の場合には今後一切口にしないことを勧められた。


「タフな肝臓っすねぇ」


 正也の主治医がそう苦笑していた。碌な食事もとらずに酒ばかり摂取していたのだ。そう言いたくなるのも分かる。昔から正也は酒が好きだった。『酒豪』のあだ名を面白がった人たちに飲み比べを挑まれては勝ってきた。だが彼は別の新しい楽しみを見つけなければならない。

 あかりはそれを一緒に探したいと思った。正也がそれを許してくれるなら、の話ではあるが。


 決心してからの彼女の行動は早かった。

 まず、現在の夫を名乗る恋人に別れを告げた。「俺から逃げる気か」と未練がましいことをいう相手に、借金の全額返済を引き受けることで別れを納得させた。それ以上の金を要求するなら、信頼できる弁護士を頼ると釘も差しておいた。

 それから何年も連絡を取っていなかった弟に電話をした。弟は例の事故を知っていて、酷く心配していた。あかりは正也の無事を知らせると、恥を忍んで別れたばかりの男の事を相談し、図々しいと理解しながらも「仕事を紹介してくれないか」と聞いてみた。受話器の向こうで悩む呻き声が聞こえたが、絶縁宣言された実家にもちゃんと連絡することを条件に承諾した。

 あかりはすぐに自分たちの両親にも連絡をした。美祢たちの祖父母にあたる人たちだ。長らく不義理をしていたことを深く謝罪し、どうか助けてほしいと涙を堪えてお願いした。話の流れで陸と美祢が行方不明になったことを知った彼らは、電話の向こうで絶句していた。


 朝桐一家には、あまりにもいろいろあり過ぎた。

 彼らがこんなにも苦しまなければならない理由は何なのかと神様に聞きたくなるほど、いろいろあった家族だった。



 正也にしてもそうだ。

 粉飾帳簿、個人情報流出、省庁が絡んだ案件の違法なやり取り。そこそこ上の役職で、経理や重要案件に関わっていたから、勤め先の不祥事に巻き込まれた。責任を全て擦り付けられる形で人身御供にされたのだ。

 連日報道陣から付け回され、住んでいたマンションも引越し、精神を病んでいった。何度も居場所を変えるうちに、彼らを心配する家族でさえ、その後を追えなくなってしまった。

 悪影響は家族にも及んだ。その間にあかりもおかしくなり、不倫に走り、家に寄り付かなくなり、最終的には離婚した。小学生だった美祢は『犯罪者の子』として苛められた。子どもは時に残酷だ。それでも美祢は微笑みを絶やさなかった。まだ幼い陸は一人で家に残された。

 最後に辿り着いたのは、父方の祖父が残した家だった。

 もうそこしか、居場所がなくなっていた。



 それまで幸せだったはずなのに、突然、朝桐一家は不運の濁流に飲み込まれた。真っ黒い悪魔のようなそれは、家族四人を好きなように弄んでいた。あかりも、正也も、息をするので精いっぱいで、美祢や陸を気にする余裕などなかった。


 だがたった一枚の写真が、少なくともあかりを正気に戻した。

 彼らには幸せな時間が確かにあったのだ。


 もしかしたら正也は自分を裏切ったあかりを許さないかもしれないが、あかりは一生かけて謝り続ける覚悟はできていた。

 あの日、あの時、あの場所で、とある細マッチョに一目惚れしてから、本当の意味で彼女の中を満たしてくれる男はたった一人しかいなかった。


 そんな男との間に設けた子どもたちが愛おしくないわけがない。

 約十三年、放置してしまった子どもたちに「こんな母親でごめんなさい」と何度も謝る。

 あまりにも長い間、酷いことをしてしまったから許されるとは思っていない。それでもせめて、彼らの無事や幸せを祈ることだけは許してほしい。

 彼女はどの神に祈るでもなく、両手を組み合わせた。


(……どうか、二人とも無事で)


 今は行方不明になってしまってはいるが、きっとどこかで彼らは元気にしていると思っていた。

 母親としての勘だ。

 ほぼ確信と言ってもよい。

 子どもたちが無事であれば何でもいい。




 彼らの無事と幸せを、あかりは心の底から切に願った。


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