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プロローグのその後 前編

 その女は酔ったようにゆらゆら揺れながら道を歩いていた。

 その手には先ほど娘のバッグから奪い取った長財布がある。そこそこある厚みに「へへっ」と口をゆがめ、中身を検めようと二つ折りになっているそれを開いた。


「あっ」


 長財布の一番薄い作りになっている部分の内側に、目が引き寄せられる。透明のビニールが張られたカードホルダーの中に、一枚の写真があった。

 それは家族の写真だった。優しく微笑む男女の手前には小さな女の子がいて、満面の笑みを浮かべながら赤ん坊を抱っこしている。女の子の名前は美祢、赤ん坊は男の子で、陸と名付けられた。一緒にいる男女は彼ら二人の両親で、父親は正也、母親はあかりという。

 写真に写っていたのは、まだ壊れる前の朝桐家の姿だった。


「あぁ、あっ……」


 灯りの脳裏に家族との思い出が蘇る。

 感情に押し出されるようにして涙が溢れた。




 元々、生まれつき体が丈夫とは言えなかったあかりには、二人目の妊娠出産は高いリスクが伴っていた。しかも一人目の出産から八年近く経過している。それでもやはりもう一人迎えたかった彼女は、夫の正也と何度も話し合い危険を承知で陸を身ごもった。

 陸の妊娠が分かった時には家族みんなで喜んだ。特に美祢はまだ性別も分からない下の子に毎日のように話しかけ、ずっと楽しみにしてくれていた。何度も体調を崩し、流産の危機を乗り越え、あとはお産を乗り越えるだけと思っていたら、今度は予定日前にあかりの容体が急変した。

 予定帝王切開だったはずが、緊急帝王切開に切り替わった。直ちに胎児を取り出す。母体が危ない。急げ、緊急カイザーだ。バタバタと慌ただしくなる周囲の気配を、朦朧とする意識の中で感じていたあかりは、きっと自分はこのまま生まれたばかりの我が子の顔を見ることはないのだろうと覚悟した。


(どうか、この子だけは生きて)


 小さな命が宿ったお腹に両手を当て、心の底から願った。


「朝桐さん! これから手術室に入ります! 元気な赤ちゃん、産みましょうね!」


 看護師か助産師か、あるいは医師が力強い声掛けをしてくれたが、あかりはそれに反応することができなかった。

 視界に何度も眩い光線がちらつき、そして彼女はブラックアウトした。


 小さくて耳障りなピッピッピッピッというビープ音で目を覚ました時には、あかりの体にはいくつものチューブが繋がれていた。酸素マスクもつけられていた。体は鉛のように重かったのだが、痛みは感じなかった。鎮痛剤が効いていたのだろう。

 患者の容態の変化を感知したのか新たなビープ音がした。看護師が寄ってきて、薄目を開けた彼女の変化に気付くと家族を呼んでくると去っていった。

 看護師に案内されてICUに入ってきた正也は、薄水色のガウンとキャップを身に着けていた。意識を取り戻したあかりの姿に、顔を真っ赤にしていたが、ついには耐え切れなくて男泣きをし始めた。よかったと何度も繰り返し、妻の弱弱しい手を握ってまた泣いた。

 たった五分の面会時間だったが、あかりには一時間にも感じた。

 生きている。我が子に会える。


 奇跡が起きたと思った。


 数日して体に繋がれたチューブが取り外され、あかりは一般病棟に移ることになった。仕事をわざわざ休んで面会に来ていた正也に車椅子を押してもらい、新生児室に向かう。弱弱しく手足をばたつかせる小さな命たちが収められた透明なベビーベッドの中に、良く見知った苗字があるのが見えた。


『朝桐 陸 BABY 男児』


 うわぁっと静かに歓声を上げて夫と手を取って喜んだ。無事だった。生きていた。新生児室の看護師によって抱き上げられたその顔は不機嫌そうなしかめっ面だったが、この上なく愛おしかった。

 後日その小さな体を腕に抱いてみれば、とめどなく愛情が溢れて泣きそうになった。学校帰りの美祢も見舞いに来てくれて、生まれたばかりの弟をたいそう可愛がってくれた。もう数日、母親と弟が病院に入院しなければいけないと理解していた朝桐家の長女は「マンションで楽しみに待ってるからね!」とニコニコしていた。


 ようやく退院した日、正也が写真を撮ろうと言い出した。家族四人初めての集合写真だ。

 美祢の小学校の運動会以来しまい込んでいたデジカメを引っ張り出し、タイマーをセットする。正也が飛び跳ねながら戻ってきて、位置につく。デジカメのフラッシュがチカチカと点滅して、小さなシャッター音が部屋に響いた。


「陸―、陸―、おねえちゃんだよー」

「美祢、陸に優しくしてあげてね」

「うんっ」

「よーっし、お父さんもみんなのために頑張って働くぞー!」

「二人とも大学までよろしくー」

「ぉ……、おぉ!」


 きっと今後の年収を気にしたのだろう。一瞬目を彷徨わせた正也の表情がおもしろかった。

 あぁ、やっぱりこの人と結婚して良かったと思った。

 それは暖かい記憶だった。

 胸が熱くなって苦しくなるほど、どこまでも綺麗で幸せな記憶だった。




 道端で号泣している女を人々が避けて歩く。


「……戻らなきゃ」


 あかりの声は掠れていた。袖でグイッと涙を拭い、元来た道を戻ろうと振り向いた、その瞬間、――


 ガシャンッ! バキッ……


 あたりに大きな衝突音が響いた。

 一瞬遅れて悲鳴。

 朝桐家のある方角からだった。


「ま、さか」


 嫌な予感がする。

 転びそうになりながらあかりは走った。履いていた靴のヒールが折れても気にせず走った。なんなら片足は、家の前に辿り着く直前で脱げてしまったのだが気にしなかった。


「あなた! 美祢! 陸―!」


 群がる人だかりをかき分けて、家族がいるはずの一軒家を目指す。

 家族がいるのと彼女は叫んだ。

 ようやく人ごみを抜けると、その前に広がる光景に彼女は慄いた。

 朝桐家の玄関口に、石油販売のタンクを積んだ軽トラックが突っ込んでいる。目立つ『危』のマークが歪んでいた。

 背後で誰かが「燃えるぞー!」と叫んでいる。

 嘘だ。そんな、馬鹿な。

 ふらふらと朝桐家に近づくあかりの腕を誰かが掴んだ。


「やめな、あんた! 爆発するよ!」


 灯油とガソリンを混同しながら、近所のおばさんが大声をあげる。


「家族が……そこに、家族がっ……」

「え?」

「中に家族がいるの!」


 別の悲鳴が響いて、更に慌ただしくなった。警察はまだか。消防はまだか。がやがやしているその彼方から聞き覚えのあるサイレンが聞こえてきた。

 その間にも軽トラックから可燃性の液体は零れ続ける。運転席には人影も確認できるのだが、気絶しているのか動かない。


「緊急車両が通ります! 道を開けてください! 道を! 開けて!」


 赤と黒と白の車両が集まってくる。幸いにもまだ火はついていない。灯油の臭いで息ができなくなる。


「警察さん! この人、この人見ててよ! 家族がいるんだって!」


 先ほどのおばさんが警察官に怒鳴る。若い警察官がはっとした顔をしてあかりにもとに駆け寄ってきた。何かを彼女に聞くが、放心状態のあかりにはもう目の前の朝桐家しか見えていない。


 あそこに、家族が。家族がいるの。


 警察と消防隊の登場から暫くして、二人が救助された。片方の足にはガラスが刺さり、酷い有様だった。

 あかりがまだ子どもたちがいるはずと譫言のように繰り返すので、消防隊員たちが火事を警戒しながら捜索にあたったがいくら探しても他に人影はなかった。


 ほんの数分遅れて救急車が到着すると、白い制服姿の救急隊員たちは救助されたばかりの患者を乗せる。警察官が「怪我人の家族だ」という女性も一緒に乗せて、受け入れ病院に向かってひた走った。

 因みに、美祢が勤める病院ではなかった。


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