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どうせ女をちゃんと満足させられなかったのだろうとおちょくる眼帯男は、馬を引いて他の者への挨拶回りに行ってしまった。
「次は腰が砕けるほど張り切ってみろー!」
「……畜生」
名前を聞く前に黒髪の女は消えてしまった。全裸のまま立ち尽くすアクラランを、周囲が嘗め回すように見る。口笛まで聞こえて、若者は陸と同じタイミングで怒鳴った。
「「見世物じゃないぞ!」」
蜘蛛の子を散らすように、見物人が逃げていった。
また、視界がぐるりと渦巻く。
今度はどんな場面が見えてくるのかと思ったら、真っ暗闇に放り出された。
上も下も分からない状態で、プカプカと宙に浮く。宇宙空間や深海に放置されたようで言い知れない不安と恐怖が陸を襲った。ぎゅっと手足を縮め、丸くなる。
「陸」
顔をあげると、そこに小さな少女がいた。
十二歳の姿の美祢だった。
「姉貴……」
手を伸ばす。じたばたともがいて、何とか年下の姉の傍に行こうとする。
「姉貴、姉貴っ! 美祢!」
「陸」
美祢が、両方の腕を柔らかく開いた。それはまるで聖母が誰かを抱き留めんとするかのようで、無限の包容力を感じさせた。
「美祢! 美祢! ……お姉ちゃん!」
何年ぶりにその呼称で彼女を呼んだだろう。
三歳の姿になった陸の体が、見えない力によって美祢の元に飛ばされる。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん! お姉ちゃん!」
「陸、泣かないで。いい子だから泣かないで」
「だって、だってぇえええ!」
号泣する陸は力の限り叫んだ。
だって、いきなり聖女とか言って変なところに連れてこられたんだもん。
だって、だんだんお姉ちゃんの姿が変わっていくんだもん。
だって、独りぼっちでずっと寂しかったんだもん。
だって、強い子でいなきゃ駄目だって頑張っていたんだもん。
だって、お姉ちゃんと離れ離れになったんだもん。
だって、お姉ちゃんが死ななきゃいけないっていうんだもん。
だって、分からないことが多いんだもん。
だって、お姉ちゃんと一緒に暮らしたいんだもん。
だって、だって、だって……。
小さな陸は十六歳の意識と三歳の語彙力と感情で訴える。
ヤンの腕の中でも泣いた。あれは姿かたちが変わっていく美祢に喪失感を抱いて泣いた。陸にとって、美祢は姉であり、母であり、愛しい存在であり、居場所であり、戻れる場所であり、心休まる場所であり、正義というか、正解というか、導き手というか、とにかく正しい場所であった。それが無くなってしまったようで、とにかく悲しかったのだ。
そして今度は美祢の腕の中で泣く。今度は全ての不安をぶつけるためだった。召喚の儀から今日に至るまでの全ての泣き言を彼女にぶつけた。遠慮などしなかった。
彼女なら全部受け止めてくれる確信があった。
「もー、泣かないでよ。陸」
美祢が声を震わせながら、弟を抱き締めぶんぶん体を振る。あやしたいのか、可愛くて堪らないのか、その中間のニュアンスで甘く陸を呼ぶ。
「陸はいい子ねぇ……」
美祢は猫っ毛の髪を優しく撫でながら思い出話をした。
初めて一人で学校に行った日のこと。初めて姉を庇ってくれた日のこと。初めて手料理を作ってくれた日のこと。初めて山野辺のおばあちゃんの誕生日をサプライズしたこと。初めて手作りのしおりをプレゼントしてくれた日のこと。初めてレストランで二人だけで誕生日会をした日のこと。初めて二人だけで遠出をした日のこと。
アクラランに召喚されてからも、思い出は尽きない。この世界で陸が目覚めるまでのこと。初めて完璧なエスコートをしてくれた日のこと。慣れない服に恥ずかしがってジレを引っ張っていたこと。一緒に王宮の図書館を探検した日のこと。
「……覚えている? あの植物園で、私に言ってくれたこと」
「うん、うん……」
「本当に来るとは思わなかったわ。陸には自分の人生を生きてほしかったの」
「でも、だって……」
「うん、分かっているから。ありがとう、陸。お姉ちゃん、陸が来てくれて本当はすごく嬉しいの」
美祢は陸の肩に両手を掛けると、少しお互いの間に距離をとった。
いつの間にか、彼女は二十代半ばの姿に、陸は今の年齢の姿になっていた。
鼻水と涙で汚れている弟の顔を、美祢はハンカチーフで拭ってやる。
「ひどい顔」
「うるせぇよ、姉貴のせいだ」
ようやく陸にも憎まれ口を叩くだけの余裕が出てくると、真っ暗闇の中に強風が吹き荒れた。汚れた布切れが風に舞ってどこかに消える。陸と美祢も引き離された。
「姉貴!」
「陸! よく聞いて!」
美祢の黒髪が、次第に明るく輝き、見事な黄金色に変わる。瞳の色も黒から明るい茶色になり、宝石のような金色に変わった。まるでファイヤーオパールだ。彼女の衣服も、元の世界で着ていたシンプルなズボンとブラウスではなく、揺らめきながら次々と服装が切り替わる。どこかで見た映像のように、服装だけ違うデザインに変わっていくのだ。次第に古代人の衣装へと変わっていく。服装だけ、時代を遡っている。
「私たちをよく見て! 私の本当の名前に気付いたように、陸ならきっと気付くはず!」
「姉貴! 待って! 行くな!」
陸は必死に暗闇をもがいた。
もう彼女は夢の中に現れることがない。そう直感したからだ。
まだ聞きたいことがあるのに。必死に手を伸ばす。
手のひらサイズにまで遠ざかった美祢は、次第に空豆サイズ、大豆サイズ、米粒サイズ、ゴマサイズとだんだん小さくなっていく。最終的には塩の一粒と同じ大きさになって、暗闇に飲み込まれた。
「畜生! ちくしょおおおおおおお!!!!」
三番目の月まであと半年を切った。闇に飲み込まれた美祢の姿がこれからの事を暗示しているようで、陸はありったけの声で絶叫した。
早く起きなければ。
早く起きて、夢日記を書き残して、美祢が言い残したことを考えなければ。
陸は暗闇の中でもがいた。
早く起きろ、起きろ、起きろ!
夢の中で自分の顔を殴ってみる。痛みはあるが、なかなか目が覚めない。
「起きろ、俺!」
もう一度殴った。
その瞬間、全身に鈍い痛みを感じた。
ベッドシーツに包まれて、粗末な寝台から転げ落ちたのだ。
急いで起き上がると寝間着を手早く脱いで、体を拭いて、ついでに少々下着も洗って――理由は察してほしい――、大慌てで着替えて、いつもの個室に駆け込んだ。
赤い細字で夢の中のことを書き残す。踊り子との一夜についても書きながら、実際に体験する際にはアクララン先輩のテクニックを参考にしようと手を合わせた。ただし、夢を見る順番にはもう少し考慮していただきたい。夢精した後に童心に戻って姉に抱き着いて号泣するのは、精神的にいろいろ来るものがある。
まさか精神の強さでも試されているのだろうか?
心がモヤモヤするが一度無心になって、美祢の言葉も覚えている限り、とにかく多く書き留める。
陸は禿げ頭で過ごした期間に、瞑想の真似事をしていたのだ。時には形から入ることも大事である。
「『私たちを見て』か……」
美祢の姿が変わり、その服装も時代を遡っていく様が瞼の裏に浮かぶ。
別のノートにまとめていた、過去の聖女が引き起こした奇跡の一覧を引っ張り出す。最初のページから読み込んだ。半分読み進めたあたりで、オスカがやってきた。夢の内容を差し障りない程度に伝え、一緒に読み返す。
彼女たちは皆、同じ日に生まれ、同じ日に『平民』になって神殿から消えた。
アクララン語で書かれた彼女たちの名前をいくつか、別のノートに書き換える。何かヒントがないだろうかと考えながら、陸が知っている限りの言語で書き記す。ローマ字については正しい綴りが分からないのでそれっぽい綴りでごまかした。オスカにも精霊たちと会話する際の言語で書いてもらったが、陸には馴染みがなくて、今のところ共通点が見えてこない。
「奇跡を起こした回数が多い聖女から抜き出してみては?」
オスカのアドバイスに従ってみる。
今までに特に偉業を成し遂げた数人の聖女の名前を並べる。彼女たちの共通点は、ずば抜けて奇跡を起こした回数が多いのだ。大体は戦争を退けたり、病気を癒したり、雨乞いをしたり、大凶作から大豊作を引き起こしたり、『混沌』たちを追い返したり……。
『アンネ=レキアリ 三番目の月 二十五日 / 三番目の月 二十六日』
『マリエット=ギャリー 三番目の月 二十五日 / 三番目の月 二十六日』
『エネバ=リッキハッタ― 三番目の月 二十五日 / 三番目の月 二十六日』
『サリーナ=ギル・リャックハット 三番目の月 二十五日 / 三番目の月 二十六日』
『ステラ=アーギュリ― 三番目の月 二十五日 / 三番目の月 二十六日』
陸はそれに姉の名前を書き足した。せっかくだから母親の名前も付けておく。
『ミネ=セイヤ・アカリ・アサギリ 三番目の月 二十五日』
夢の中で美祢は言っていた。私の本当の名前に気付いたように、陸ならきっと気付くはずだと。
あの『私』とは、きっとセネアのことだ。
名前の一覧を眺める。
何かヒントはないかと、すっかり雑記帳と化している夢日記のメモを頼る。
赤文字が目に入った。
『アークィル=アクラ=アクララン』
彼らの共通点は、金髪の男の子で、名前に「ア」と「ク」が……――。
「――そうか!」
閃いた陸はセネア・キャリの名前も書き足した。上から順番に共通する音に印をつける。『セ』の音から『リ』まで、六つの音を拾い上げる。
『アンネ=レキアリ 三番目の月 二十五日 / 三番目の月 二十六日』
『マリエット=ギャリー 三番目の月 二十五日 / 三番目の月 二十六日』
『エネバ=リッキハッタ― 三番目の月 二十五日 / 三番目の月 二十六日』
『サリーナ=ギル・リャックハット 三番目の月 二十五日 / 三番目の月 二十六日』
『ステラ=アーギュリ― 三番目の月 二十五日 / 三番目の月 二十六日』
『ミネ=セイヤ・アカリ・アサギリ 三番目の月 二十五日』




