46 ※改稿しました
この世界に来てまだ一年ちょっとなのに、もっと長くいるような気になる。
陸の場合には、周囲の状況に恵まれていたから良かった。周りにいたのが優しく親切な人々だったからこそ、アクラランでの生活に馴染めたと思う。そうでなかったら今頃、彼は地獄のような日々を過ごしていたか、あるいは早々に人生が終了していたかもしれない。
感傷的な気持ちになりかけた陸はまたノートに視線を戻した。
単純に寝惚けて書き散らしただけかもしれないのに妙に気になった。日記をつけ始めた当初にそれらのカタカナが関わるような単語がないか見直してみたが、該当する言葉はない。四つの音が何かの単語になるとは限らないのに、どうしてだか関連性があるように思える。
陸がノートを眺めていると、不意に来訪者を知らせる音が聞こえてきた。誰かが神殿大文殿を訪れたのだ。
来客対応に向かうオスカの後姿を見送った陸は、一人残された小部屋で大きなあくびをした。何やら目がしょぼしょぼする。聖女に関する史料を読み込んでいるからかもしれない。
(……少しだけ目休めたら、また史料のまとめ作業をしよう)
中指で目頭を揉んだ陸は、片肘をつくとそれで頭を支える。一分とか二分とか、そのくらいしたら目を開けるつもりだった。
……ちゃぽんっ。
ちゃぽちゃぽ、……ちゃっぷん。
水音に気付き陸は目を開けた。何やらぐらぐらと気持ち悪い揺れも感じる。
やけに狭い暗闇の中、前方に突き出した掌にザラザラとした木の板の粗い感触があった。どうやら何かの木箱に閉じ込められているようだ。
音と揺れも組み合わせて考えると、陸が閉じ込められた木箱は水の上に漂っている可能性が非常に高い。箱の側面の半分から下部分はしっとりと湿っているから、そこまでは水に接しているのだろう。
やけにうるさい水音の合間に他の物音がしないか耳を澄ませた。何も聞こえない。
大海の中心で漂う小さな木箱を想像して、陸はゾッとする。
更に両手で周りを探ると、幸運なことに蓋がある面は上にあった。
小さな箱に押し込められているためだろうか。全身に痛みを感じつつも体の向きを変え、蓋を思い切り蹴り開ける。衝撃で木箱が大きく傾いたがひっくり返ることはなかった。
強い外光に目が眩んだ陸は咄嗟に顔を覆った。それから少しずつ指の隙間を開き、薄っすら開いた両眼で周囲を確かめる。
やはりというか、そこは紺碧の海の上だった。
首と体を捻って全方位周囲を確認しても、陸地らしき影は見当たらない。水平線がずっと続いていた。
続いて視線を近場に向ける。陸が閉じ込められていた箱の周囲には、元は巨船だったと思われる残骸が無数に漂っていた。更に、その合間には上半身裸の船乗りたちが数人浮いている。どれも傷だらけの背中を上にしており、とても生きているようには思えない。
複数の死体を目の当たりにした陸は、体を強張らせて箱の中に身を潜めた。そこでようやく、自身の服装が変わっていることに気付いた。
まるで女の子用のワンピースのような、膝丈までのチュニックスカート。少し厚めのフェルトのような手触りの素材だ。腰には太めの皮ベルトを巻き、足元は編み上げタイプの皮サンダル。どちらも日常的に使い込んでいるようで、サンダルなどはかなりくたびれている。きめ細かい肌には青あざがいくつも出来ていた。全身の痛みの原因はコレだ。
どこかで見たことのある格好だなと思ったら、あの燃える麦畑を駆ける兄妹の、兄の方の服装だった。
(……いつもの夢と、違う?)
陸は自分の頬を抓ろうとしたが、手は箱の縁を掴んだままだ。いつもは第三者視点から兄弟たちの悲劇を見ていたが、今回は兄の中に陸の意識が入り込んでいるらしい。VR映像のような夢にRPG要素が加わった感じだ。
「……こ、こは」
海面を覗くと、揺れる水面に歪んだ顔が映り込む。こんな場所に一人取り残されて、生き残れるはずもない小さな少年の顔だ。
体の主である少年が片手で海水を掬って飲んだ。しょっぱくない。
少年の中で別の意識として存在する陸が「海水じゃないのか?」と疑問に思っていると、本体の少年は大きな声で助けを求めた。それは陸が知るどの言語とも響きが違うのに、意味は自然と入ってきた。
「誰か―! 生きている人はいませんかー?」
返事はない。
つまりそういうことだ。
少年はもう一度水を飲み、漂ってきた紫色のリンゴのような果物を拾い上げて頬張ると、木箱の中に座り込んだ。ちゃぷちゃぷと水音だけが響き渡る。
少年は目を閉じた。
次に少年が目覚めると周囲は薄暗くなっていた。先ほどまでは昼間だったから、数時間寝ていたことになる。周りの景色に大きな変化はない。
少年はまた水を飲んだ。
水平線の彼方に沈みかける大小二つの太陽と、入れ替わるように顔を覗かせた三つの月を眺める。
これからどうなってしまうのか、全く見当がつかない。
「……セネア……くっ……」
少年は静かに泣き始めた。
たった一人の妹と引き離され、襲撃者たちにかどわかされて、船に乗せられた。もしかしたら逃げ出そうとしたのかもしれない。それで折檻されて木箱の中に閉じ込められた。それが気付いたら海の上で彼一人浮いていたのだ。
孤独だった。
「セネア……セネア……」
箱の中で身を丸くした少年は、何度も妹のものと思われる名前を繰り替えした。妹に会いたい。会って抱きしめたい。大好きな家族の元に帰りたい。漏れる嗚咽に、切ないほどの感情が含まれている。
陸もその気持ちが分かるから辛くなった。
この場にいたら傍にいてやれるのに、それができないから酷く歯痒い。
「…………あー、これは失敗したなぁ」
誰もいないはずの海のど真ん中で、やけに能天気な声がした。
顔を涙で濡らしたままの少年が恐る恐る顔を上げる。頭半分だけ箱から出してみれば、水の上に人がいた。いや、『人らしきもの』がいた。常に形を変え続けているので、一見すると正確な形が分からない。薄い虹色のヴェールを何枚も纏っているようだ。そこだけ無重力空間が存在しているのか、重力を無視してゆらゆらと揺らめいていた。
お化け。幽霊。化け物。その類の存在に驚いた少年が箱の中で態勢を崩した。勢いあまって箱がひっくり返る。水中に放り出された。
上も下も分からない水中で、少年はパニックになって手足をばたつかせた。
(ヤバい! 死ぬっ!)
陸も必死になってもがいていると、何かが腰のベルトに絡みついて水の中から引っ張り出された。
海水でなかったことは幸いとはいえ、それでも目に水が入って痛い。鼻の奥にも入り込んだのかツンとした痛みが走るし、飲み込んでしまった水を吐き出そうとゲホゲホと咳き込むと喉の奥がひりつく。
水と涙と鼻水と涎で濡れた少年の顔にいきなりヴェールの塊が現れた。多分、覗き込んでいるのだろう。近くで見ても無数の布の集合体にしか見えないけれど、多分体勢的に覗き込んでいるのだ。
「君、生きてるのぉ?」
場にそぐわない質問をされて、陸もとい少年は突然現れた謎の存在に硬直した。少年より先に我に返った陸が「見れば分かるだろ! お前のせいで溺れかけたけどな!」と叫ぶが、それが少年の口を通じて相手に伝わることはない。
身を強張らせたままの少年に何を思ったか。ヴェールのお化けはベルトに絡めていたヴェールの一端をしゅるしゅるとひっこめると、小さな体はまた水中に落ちる。
「ぅわ、ッ!」
今度はどうにか両手足は動かして、先ほどまで小舟として使っていた木箱にしがみ付くと、改めて謎の存在を見上げた。
水の中でたゆたう薄絹。
それが一番適した表現かもしれない。
それが空気の中にそのまま表れた感じだ。
「……あ……な、何?! おばけ?」
箱にしがみ付いたまま少年が問いかけに、ヴェールの塊はくるりと回った。
薄布の隙間から人間の足が現れる。よく見れば両手も見えた。顔はヴェールに包まれていてよく見えない。まるでどこかの第二王子のようだ。
「おはよう! はじめまして! 君は僕の箱庭の住人だね」
明らかに「こんばんわ」の時間帯だが、能天気なヴェールお化けは気にしないらしい。何時に会っても「おはよう」と挨拶する性分なのかもしれない。それに、ヴェールお化けはもう一つ気になることを言っていた――「僕の箱庭の住人」とは?
「僕はこの世界の創造主! ここの人間たちがあまりにも好き勝手して酷いから、一度洗い流そうと洪水起こしたらちょっとやり過ぎちゃって。……いやぁ、まさか生き残りがいるなんて思わなかったよ」
世界の創造主とやらが、あははーと笑う。「虫の観察をしていたら、間違えて水浸しにしちゃった」みたいなノリで、何やら壮大な問題発言を言い放ったような気がする。
(……もしかして、「この世界の住人たちがあまりにも身勝手だから世界を滅ぼした」的なこと言った?)
まるで陸の元の世界でも多少耳にしたことのある、『ナントカの箱舟』ような話だ。しかも、人類全滅バージョンの。
「あ、あの……」
波に揉まれながら少年が声を上げる。
「と、とりあえず、助けて。このままじゃ沈んじゃうから。ぼく、泳げないんだ」
「水の上に立てばいいんじゃない?」
「無理だよ、人は立てないんだ」
「じゃぁ浮かべば? 彼らは浮かんでいるよ」
「あの人たちは死んでるんだ。ねぇ助けてよ。このままじゃ本当に溺れちゃう」
ヴェールお化けには違いがよく分からなかったようだが、とりあえず木の板の上ならどうかと聞いた。最初に用意されたのは手のひらサイズの板だったが、後からちゃんと少年が乗っても耐えられるサイズの板が用意された。
ひとまず溺死リスクを免れた少年は、世界の創造主を名乗るソレをまじまじと凝視する。
「あなたはだれ?」
「言っただろう? 世界の創造主さ。あ、ちょっと前に滅ぼしちゃったけど」
「ふぅん?」
「君こそ誰? この世界で多い名前はトーヤンとかオウリン、リリアネとかだっけ?」
「アークィル」
「あー、……なんだって?」
「ぼくはアークィルだよ」
「『アークィル』? 聞いたこともない。できたばかりの言葉かな? どういう意味?」
「『麦の子って意味だ』って、母さんが言っていたよ」
黄金色に輝く麦畑の中で生まれた、同じ色の髪を持つ可愛らしい子。村を支える小麦のように、誰かを支える人になってほしい。
そんな思いが込められた名前なのだとアークィルは説明した。
世界の創造主とやらはその思いにいたく感銘を受けたらしい。アークィルの名前を繰り返しては「素晴らしい」と絶賛した。
「『世界のそーぞーしゅ』さん?」
「何だい、アークィル?」
「その、『生き残り』ってどういう意味?」
「あぁ、それはね、――」
世界の創造主は天気の話をするような調子で、アークィルの世界に何が起きたのか語り始めた。




