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陸は年老いた師をやんわりと制すると、とにかく飯だと席に着く。さっそく肉に手を付けようとしたが嚙み切る気力がなくてパンにした。かぼちゃのスープにくたくたになるまで蒸した野菜。魚の丸焼きなど、咀嚼が簡単そうなものからゆっくり時間をかけて腹に納める。いつもの倍の時間をかけて、いつもの半分量の食事をした。
急に固形物を受け入れた胃は急な労働を求められてびっくりしていたが、陸は行儀悪くテーブルに肘をついてキリキリする腹が落ち着くまで動かなかった。
ようやくどうにか動けるようになると、やはり謝り続けるヤンを連れて部屋に戻った。
扉を閉める。鍵を掛ける。
気休め程度の密室の中で、陸は「もう謝らないでほしい」と老婆に頼んだ。確かに大きすぎるショックが伴っていたが、聞きたいと望んだのは陸本人だ。むしろヤンはちゃんと警告してくれていた。まるで教えたくないようだった。彼女は彼女なりに、陸を守ろうとしてくれていた。
それくらいのことはもう分かる。
半年ほど前ならもしかしたら、他人のせいにしていたかもしれないが、今なら分かる。
暗闇の中で美祢に会ったからだろうか、何故かそこまで気分は悪くない。
美祢は陸に頼み事をしていた。千年の呪いを終わらせるために手を貸してほしいとかいう、なにやら壮大な頼み事だったが陸は首肯した。
どう考えたって美祢は陸にとって、たった一人の姉で、母で、特別な女性に変わりない。見た目や言動が変わり、まるで見知らぬ人のようになっても、陸に語り掛ける声の優しさは変わらなかった。
そんな彼女の頼み事なら断る理由がない。
冷たい感触が残る唇にそっと指をあて、陸は詳細を省くことにした。自分の中だけに秘めておきたかった。
「……姉貴に会う夢を見て、『神殿で待っている』って言われ、ました」
「神殿に? そういう意味だい?」
そんなこと聞かれても困る。陸は首を振った。しかし、美祢が神殿で待っているというのなら、きっと彼はそこに行かなければならないのだ。とりあえず細かいところは後回しにして、まずは前に進まないと何も始まらない。
「……俺、前に姉貴に言ったことが、あります。『神殿で働きたい』って。姉貴の傍で、姉貴を支えたいって言ったんです」
もしかしたらそれが関係あるのかもしれない、という陸の呟きに、ヤンは口元に手を当てた。低く唸りながら考える。
「……あたしは神殿で奉仕する方法を知らん。下の神殿なら誰でも信仰心さえあればいいと言われているが、詳しくは知らないんだ。伝手はあっても、まずは国王陛下にも確認してみなければならん」
「どうして?」
「それはリク。お前が異世界からやってきた『聖女の弟君』だからだよ」
異世界からやってきた聖女の弟君。それはこの世界での明らかな『異物』だ。
何故この世界に来てしまったか分からないから、国王陛下は『陸の安全を確保するため』なるべく手元に置こうとするだろう、というのがヤンの考えだ。しかしそれはあくまでも推察であって、事実かは分からない。ならば本人に聞いてみるのが確実だ。
陸は紙とペンを取り出すと謁見を求める短い手紙を書いた。数日前に国王一家と夕食で同席する機会があり、その際に「これからどうしたい?」と丁度訊かれていた。その答えが出たから聞いてほしいと一言添え、他人に中身が見られれないよう封をする。廊下にいた使用人たちに声を掛け、国王陛下の手元に渡るなら届け先は宰相でも近衛隊隊長でもいいと伝えると、手の空いていた一人の女中がスカートを翻した。
数時間後には宰相から遣わされた文官が陸の部屋を訪ねてきた。神殿とも相談しなければならないから少し時間が掛かるという。三番目の月に行われる二十五回目の聖女の日の準備で神殿も王室もバタついていたのだ。時間が多少たっても構わないと首肯した。
聖女の日が行われるのは、三番目の月の二十五日だ。暦の違いで多少のずれはあるかもしれないが、その日は元の世界の美祢の誕生日でもあった。
これまでにも何度か彼女の誕生日を一緒に過ごせないことがあった。何かしらの行事だったり、美祢が勤めていた病院の勤務の関係だったり。もしかしたら今回も、祝いの言葉を直接伝えるのは難しいかもしれない。仕方ないことだが、特に悲しいとかは思わなかった。少しだけ、残念ではあるが。
前回の誕生日では、陸の学校の予定と美祢の夜勤の予定が重なる日だったので少し前倒しして祝った。どこに行くかは伝えずに連れて行ったのはオープンしたばかりの小さなカフェ。陸が昔から貯めていたお年玉や小遣いなりで予算を組み、予約時に注文したバースデープレートを二人で食べた。年齢の割に背の高い陸と華奢な美祢の組み合わせは、店員からは少し年齢差のある恋人同士のように見えたようで、それが少し気まずかったが嫌ではなかった。
もしかしたら元の世界にいた頃から、陸の姉への思いには少なからず恋愛感情が絡んでいたのかもしれない。
そう、誕生日プレゼント。
陸は重苦しいため息を吐く。
アクラランに来てから、彼は完全に無一文になってしまった。自分の金でプレゼント一つ姉に贈ることができない。そう自覚してしまうと自尊心が揺らぐ。去年の秋の大収穫祭で散財したが、あれは国王から与えられた金だった。
大したスキルもない。帰る場所もない。金もない。
周囲から与えられるだけだ。
そんな自分は無力で、かなり情けない。
自暴自棄になりかけるが踏みとどまる。
スキルや金や居場所はないかもしれないが、彼は特別なものを持っていた。
それは美祢からの愛情であり、山野辺のおばあちゃんからの優しさだった。
彼女たちの慈しみを覚えているから、陸は腐らずにいられる。
せめて花束の一つでも姉に送りたいが可能だろうかと、立ち去りかけた文官に陸は聞いた。文官は宰相にもその要望を伝えると頭を下げた。二日後には神殿に贈ることができる花の一覧が寄越されて、陸はそこに記載されていた聞き覚えのある名前に星印をつけた。ついでに、白ベースで華やかにしてほしいとコメントをつける。花のことはよく分からないが、元の世界で姉がそう言っていたのをほんのり覚えていた。
「さすがリク様。『聖女の花』とも呼ばれるフリージアを選ばれるとは」
感心している文官に、陸は難しい顔をした。
フリージアは、美祢が一番好きな花だから選んだのだ。
それからすぐに三番目の月に入り、陸はあの三つの悪夢にうなされる様になった。
マスコミが押し掛けるマンション。
病室で泣き暮れる男と寄り添う女。
美しい麦畑が一転、戦火に焼かれる小さな村。
毎日繰り返されて、嫌な気分で目が覚める。
何度も見ているうちに、全てに『家族』という共通項があることに気付いて、更に不快になった。しかもそれぞれのストーリーは次第に進んでいるような気さえする。陸は夢占いなど信じないしよく知らないが、それらの夢に何か意味があるのならもっと分かりやすく見せろと言いたい。
ついには夜中に目が覚めるようになり、鬱々しい思考を霧散させるために早朝にもならない時間から鍛錬に励むようになった。『影』によってそれを察知した近衛隊隊長が、ただ見ているだけから気まぐれに剣の相手をするようになったのはここ最近のことだ。
『影』を通じてリンゲンがどこまで陸の変化を見てきたか知らないが、何も言ってこないので陸も何も聞かなかった。下手に質問したらボロが出てしまいそうだ。
あくまで彼に依頼しているのは剣術指導。それ以上でもそれ以下でもない。
老魔術師ヤン・ノベも何も言わない。ただ粛々と講義を行う。
秋の大収穫祭で奇跡が起きて以来――表向きには「一番目の月の神殿参拝で起きた奇跡」ということになっているが――、陸に対してのアクララン語の講義はほぼ必要なくなっていた。とはいえ言葉遣いの訓練は引き続き行われていた。『聖女の弟君』として、王侯貴族相手でも恥をかかずに済むように、こちらの世界独自の敬語を身につけなければならない。ダンスを含めた社会技能の訓練も引き続き行われた。人としての質を落とすことは簡単だが、高めるのは大変なのだ。
氏より育ちとはよく言ったものである。




