29
さざ波のように皆が部屋から去り――ヤンは出ていく際に魔法で扉を修復した――、ようやく静かな部屋で一人になった陸は、再びボールペンを握りしめた。オスカとは精霊電話が繋がらない。恐らく手放したタイミングが約五分だったのだ。
手の中の黒い棒を見つめる。昨年の誕生日に姉が贈ってくれた筆記用具だ。多少変わった形状をしているが書き心地はいい。見た目はそのままだが、中のインク芯は別物に交換されている。
衝動に駆られてその手にある物を振りかぶって腕が高いところで止まった。何をしようとしたのか考えていなかったが、何もできるわけがなかった。大げさなくらい震える手をゆっくりと下ろし、もう片方の手で押さえて胸の前でそっと手を開く。
約一年、使い勝手の良さから愛用していたただのペンだ。
自然と両手が閉じそのまま額に当てる。先ほどよりも手の震えはマシになっているが、ブルブルと小刻みに震えている。
何度も深呼吸する。「とまれ」と何度も自分に言い聞かせる。
どこか他人事で、別の遠い場所の出来事のようで、今一つ実感が湧かない。
何故体が震えているのかが分からない。まだ季節は冬だから、寒いのだろうか? でも汗もかいている。暑いのだろうか?
体と心が離れ離れだ。何やら自分ではない気がしている。
聖女は死ななければならない。
今の聖女は姉の美祢だ。
つまり美祢は死ななければならない。
何故? どうして? 何のために?
だんだん頭の中が冷えていく。同じ疑問が頭の中をぐるぐる空回りしている。意味が分からない。いや、意味は分かっている。でも思考回路が二つに割れているみたいで、意味が分かっているのに理解ができない。「へぇ~、そうなんだ」と普通に相槌ができてしまいそうだ。
堂々巡りの思考回路でいつまで迷っていても仕方がないから、一度頭の中を空っぽする。目を瞑っているのに眩暈がした。
頭蓋骨の中で脳みそがシェイクされているみたいだ。
あぁ駄目だ。横になろう。
ペンを握ったままベッドに倒れ込む。靴も両足のつま先でそれぞれ引っかけて、適当に床に落とす。中途半端に投げ出された両足が落ち着かない。整えられたシーツの上を這いずって、なんとか全身をベッドの上に落ち着かせる。
多分、家族が死ぬとは悲しいことだ。そのはずだ。
それなのにやっぱりどこか他人事で、ちっとも悲しみを感じない。
きっと美祢は最初から自分が死ぬことを知っていた。
知っていたから元の世界にいる時よりも陸の傍にいて、彼を気遣った。
彼女がいなくなっても彼が生きていけるように、ヤン・ノベに弟を頼むと願った。
(……一体何回、姉貴を傷付けただろう……)
知らなかったとはいえ陸は愚かだった。死ぬべき宿命と分かっている姉に対して、何度も無邪気に将来のことを話していた。無知とは恐ろしいものだ。知らないうちに周りを傷付ける。それでも美祢は儚げな微笑みを浮かべて肯定してくれた。もしかしたら何度も何度も叶わない夢を聞かされて、部屋で一人泣かせてしまっていたかもしれない。
美祢が王宮で夜を過ごした最後の日。
中庭の芝生に二人で寝ころんで空を見上げたあの日。
ヤンが現れる直前彼女は何かを言おうとしていた。実はあの瞬間、美祢は打ち明けようとしていたのではないか? ヤンと別れた後で何を言いかけたのか聞いたけれども、彼女は「どうしてもヤン先生にお礼が言いたかったのよ」と吹っ切れたように笑っていた。嘘ではないだろうけどそれが全てじゃない。それでももっと突っ込んで話を聞き出そうとしなかったのは陸だった。
もしも無理やりにでも聞き出していたら、今頃陸は別の判断をしていたかもしれない。
過ぎ去った日々が、無知だった自分が憎たらしい。
(……姉貴……姉貴っ! ……美祢……!!)
心臓が握りつぶされるように痛む。シーツを巻き込みながら赤ん坊のように体を丸める。
ようやく悲嘆の情がふつふつと湧き上がってきた。胸の真ん中から湧き上がるそれは体の中で津波のように全身に広がり、脳みそに辿り着いた。血が頭の血管を逆流するようで頭痛が激しくなった。
痛い。痛い。心臓が痛い。肺が痛い。頭が痛い。
どうしようもなく悲しい。
姉が、美祢が、死ななければならない。
失いたくない。嫌だ。何で。どうして。
空気の中で溺れる。
手の中で細い棒がかすかに軋む。
まだ甘えが残る精神は、あまりの苦悩に耐えられなかった。
気付けば陸は漆黒の中に意識を手放していた。
そのまま何時間、何日ベッドの上で過ごしたか分からない。瞬きする合間に大きな窓から外の光が差し込んでいたはずなのに、時間の感覚がまるでない。死んだように体が重い。
何度か目を閉じ、何度か開くと部屋の中が暗かった。
何も感じず、何も考えず、ただぼんやりと目を開いている。
すると、誰かの手がふっと頭に触れた。
「……だ、れ?」
すっかり乾いた声帯から無理やり音を出す。頭も動かそうとしたが、無理な体勢だった。
「リク」
草原を吹き渡る風のように優しい声が降り注ぐ。姉だと思った。
強張った腕を伸ばす。ほっそりした手が陸の手を握る。ぎしりとベッドが鳴る。どうやら姉と思われる人物は陸の顔が向いているのとは反対側に腰掛けているらしい。ふっとどこかで嗅いだ香りが鼻腔に届く。それはとてもいい香りで、荒んだ心が癒されるようだった。
「リク、お願い。どうか国王様を恨まないであげて。これはずっと前からの呪いなのだから」
「……みね」
「ひどく喉が枯れているね、水を飲まないと」
酷いガラガラ声に『美祢』は苦笑した。陸の肩に手をかけゆっくりと仰向けにさせる。陸は抵抗せずに大人しく従う。人が動く気配とグラスに水を注ぐ音がして、再び陸の隣が小さく軋む。少し冷たい手が陸の目元を覆い隠して、その唇に冷たく湿った何かが触れた。水が少しずつ乾いた口内を潤す。一度離れてまた冷たい何かが水を運んできた。
「……でもきっと、リクとならこの呪いを終えられる」
鼻と鼻が触れそうな距離に『美祢』はいた。直接触れていないのに体温が伝わってきそうだ。
「ねぇ、リク。お願い。この呪いを終わらせるために手を貸して」
『美祢』が、陸に頼んでいる。
ならば首を横に振る理由なんてない。彼女の役に立てるなら本望だ。
目元を冷やしていた手が、優しく髪を撫でた。何度も何度も、幼い頃のように、その細い指の間を陸の髪が滑る。
あまりの気持ちよさにうとうとしていると、恵みをもたらす静かな雨のような声が陸に降り注いだ。
――……神殿で、待っているから。
遠くから、そう、聞こえた気がした。
次に陸が目覚めると、朝だった。
空腹で死にそうだ。トイレにも行った記憶がない。
ふらふらしながら用を足し、ついでに体を濡らしたタオルで軽く拭った。かなり鍛えられたはずの筋肉も少し落ちたようで、なんだか少し頼りない。鏡に映った顔はやつれていて、母親似のはずなのに父親の面影が見え隠れした。
食事の後で風呂の用意をしてもらおう。暖かいお湯で体を清めたい。
着替えて廊下に出ると、白い奴ら――毎朝陸の部屋にやってくる白い制服を着た使用人たちのことだ――が心配そうな顔をして並んでいた。どうやらドアをノックしようとしていたところらしい。
陸が部屋に閉じこもってから、四日が過ぎていた。「彼が返事をするまでは開けては駄目だよ」と命令されていた彼らは陸の生死を案じながら、毎朝内側から返事があることを祈ってドアをノックしていた。そんな白い奴らの面々に一気に安堵の色が広がる。リーダー格である初老の男に至っては「生きていた!」と目を潤ませていた。
「リク様……! 良かった! お目覚めでしたか」
「……腹、減った」
「えぇ、えぇ! そうでしょうとも! もう四日間も飲まず食わずでしたから」
彼らは朝食の準備は完了していると陸のために道を開け、しっかり食べてきてくださいと手を振った。
空腹のあまり眩暈すら感じる陸は壁に手を付きそうになりながら、いつもの食堂に向かった。陸の姿を認めて扉の両側に立つ少年たちが、慌てて彼のために仕事をした。
「リク!」
開かれた食堂の扉から飛び出してきたのは老魔術師ヤン・ノベだった。彼女は陸が部屋から出てくるまで、毎朝ここで待っていたのだ。彼女はげっそりとやつれた教え子の傍まで駆け寄り、己の杖を差し出しながら陸に何度も謝った。彼の心に大きな衝撃を与え、部屋に何日も引きこもらせるようなことをしてしまった責任を感じていた。




