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陸が元いた世界とアクラランでは文化や風習が大きく異なる。作法も言葉も後者の方が圧倒的に古めかしい。その差異を挙げればきりがないが、特徴的なものに苗字の有無があった。
陸にとっては皆が持っていて当然のものだったが、アクラランでは異なる。こちらの世界では苗字とは家の名であり、領地の名で、貴族をその地に縛り付けるための見えない鎖でもあった。リンゲンの話の途中でヤンも加わり、「苗字とは東国のセンから伝わってきた単語だ」と付け加えてくれた。漁業だけでなく農耕も行うセンの国では苗とは子孫の事であり、その苗の世話を一緒にする者が家族であると考えられていた。因みに、アクラランでは「家名」や「家門」という言い方が一般的だ。家の名を語ることはすなわち、その領地や領民たちを治める責任があることを表していた。リンゲン姓を名乗る近衛隊隊長はリンゲン領を治める責任が、アクララン姓を名乗る国王にはアクララン全体を治める責任があるということだ。
名前一つでこんなにも大きな責任を負うのかと陸があんぐりしていると、今度はヤンから驚くべき質問をされた。そんなに嫌であれば、大きな決断ではあるが家の名を捨てることはできないのか、というのだ。陸の常識ではありえないことだったが、アクラランではそれが可能だった。『家名を捨てる=貴族としての責任を捨てる』という大きな決断になるので皆無に等しいが、できないことはないのだ。
思いがけないアイディアに、陸は暫く沈黙した。
朝桐家に……特に両親に対して良い記憶はない。思い出したくない過去、記憶の汚点、黒歴史。はっきり言って、彼らに関する記憶だけハサミで断ち切って捨ててしまいたい。しかし同時に、朝桐の苗字を名乗ることは美祢との繋がりを保つことでもあった。
朝桐美祢と朝桐陸はたった二人きりの姉弟。
アクラランは当然ながら、この世界には彼ら以外に朝桐を名乗る者はいない。目視できる繋がりではないが、かといって軽視はできない。気持ちの問題といえばいいのだろうか。元の世界では婚姻や離婚で姓が変わることはよくあることだった。不変的な繋がり、というわけではない。それでも元の世界でのどんな些細な関係性さえ一切断絶されたこちらの世界では、同じ苗字を名乗り続けることは何よりも強固な繋がりに思えた。
すでに「朝桐の名は捨てない」と断言しているようなものだが、断言することを苦手とする人種らしく、もう少し時間をかけて考えたいと結論を後回しにした。
家族という一集団に対してモヤモヤした気持ちを抱え、さらには不眠にもなりかけている陸の気を紛らわしてやろうと、近衛隊隊長は毛布を肩から外した。王家の『影』として朝も夜も関係なく半年以上もこの異邦人を監視していて、まさか情でも湧いたのだろうか。
何故かこのまま放っておく気になれなかった。
「……少し相手をしましょう。ギル、剣を寄越せ」
「はっ!」
久しぶりの長剣との手合わせになった。陸の手元にあるのは大振りのナイフだが、使い慣れている得物を使えと指示された。
利き手ではない方で剣を振るうリンゲンを一歩でも動かしたら勝ち。ルールは簡単だったが、一度も成功したことがない。どんなに本気で打ち込んでも、剣圧で負けて動けなくなってしまうのだ。この朝も陸は汗だくになって剣術の師に挑んだが、結局太陽が顔を出し始めるまで一歩も動かすことができなかった。
無心に打ち込んだためか、いつの間にか忌々しい夢のことなど頭から消え去っていた。
夜が明ける前からリンゲンと剣を交えたことは、午前中の講義でもヤンから指摘された。
「また夜中からリンゲン卿と打ち合ったとか? 一歩も押せなかったようだが」
「……見ていたのですか?」
「アミシュたちから聞いた。ランタンを持って行っただろう」
「なるほど」
散々指摘されてきた口調も、一番目の月以降この数週間でだいぶ変わっていた。まだ言い回しが分からないケースもあるが、なるべく丁寧と思われる表現をするようにしている。無理やりそのように振舞おうとするその姿にヤンは憐れんだ視線を向けたが、彼の気持ちを慮って普段通りに講義を進めることにした。
一番目の月に神殿を訪れてから、陸の周りではいろいろあった。
まだ成長段階の若い心が上下左右に振り回され、喜んだり悲しんだり感動したり絶望したり……と、本当に激しすぎる感情のジェットコースターに乗り込んでしまったのだ。
しかもたった一カ月程度の間に、である。
まず、この世界での初めての誕生日を迎えた。陸は十六歳になった。
元の世界では誕生日を祝ってくれていたのは美祢か山野辺のおばあちゃんか、大して仲良くもない学校のクラスメイトたちだ。「誰も助けてくれない」という思考に陥った彼が、自分を守るために無意識に周囲を拒絶したためか、友人と呼べる相手などいなかった。一緒に遊べる相手で思い浮かぶのは、せいぜい夜の公園で密かに餌付けしていた猫くらいだ。
そんな彼が初めて、美祢でも山野辺のおばあちゃん――見た目はそっくりだが中身が違う――でも、学校のクラスメイトでもない相手から誕生日を祝ってもらった。陸が旅に興味があるようだと伝え聞いた彼らは、特別なプレゼントも用意してくれていた。
言葉に詰まるほど、嬉しかった。
次にアクララン国王と家族と初めて会食をした。
国王と第二王子のルカスとはすでに面識があったが、第一王子のライオス、第三王子のネフィウスとはこの時が初めての顔合わせだった。それぞれ北と南の戦地で軍隊を指揮していたため、これまで会う機会がなかったのだ。
長兄のライオスは雄々しいライオンのような風格の男で、三兄弟の中では最も豪快な性格をしていた。周囲から「若い頃の国王陛下にそっくり」と言われるだけあって、父親ともよく似ていた。
末っ子のネフィウスは甘みのあるストロベリーブロンドが印象的な青年だった。元の世界では「末っ子は甘えん坊」という知識が浸透していたが、この第三王子にはそれが当てはまらず、
長男のような真面目さがあった。そのような人格形成が行われた背景には、二人の兄が大いに関係あるのだろう。現在妃の座にあるのは彼の母親だけだ。彼の甘い髪色は母親から受け継いだものだった。
ヤンとともに王族五人と食事をすることになった陸は、丸六日かけてテーブルマナーの特訓を受けた。特訓の最終日には宰相までその特訓に付き合ってくれて、場を乱さない程度には様になった。
一部に緊張感の漂う夕食の最中、国王はワインを片手にこれからどうするのかと訊いてきた。何かやりたいことはあるのかと聞かれた陸はカトラリーを置き、あったのだが迷っていると素直に答えた。哀愁漂うその面立ちに、国王はゆっくり考えろと情けをかけた。
陸がやりたいことは、姉のために神殿で働くことだった。その前は、王宮で働いたり、外の世界に旅に出たり。どこか気に入った場所で商売をしてみるかなどと夢を膨らませていたが、いつか美祢と訪れた植物園でみた一体の彫像に、彼は別の可能性を見出した。
しかし、一番目の月に上の神殿で美祢と再会してから、陸は自身の目標に自信が持てなくなっていた。大きな原因としては、すっかり風貌が変わってしまった美祢の存在もそうだが、もう一つ、あの時の不気味な出来事も挙げられる。
それは上の神殿の地下にある白い部屋で陸の身に起きたことだった。
彼の中に自分ではない誰かの凄惨な記憶が蘇り、自分ではない誰かの言葉で互いの無事を確かめ合った。華奢な女の体を腕の中に抱き留め、喜びに感涙し、運命の再会を神に感謝し、今度こそは何があっても手離さないからと固く胸に誓う。
もしも陸がこの世界にあるどこかの村で生まれ育ち、戦の火の粉が降ってくるような環境にあったなら、それが当然と思うほど強烈で自然な感情だった。
しかし陸が育ったのは、どこかの村ではなくコンクリートでできた街だ。「健康被害がないかしら」とか言われつつあたりを飛び交っていたのは、戦の火の粉ではなく微弱な電波だ。無邪気に駆け回っていたのは麦畑ではなく、近所の小さな公園や学校の校庭だ。幼い頃にいつも手をつないでいたのは、妹ではなく姉だ。
だから違和感に気付いた。
だから彼の大きな目標が、大きく揺らいだ。『姉を支えるために神殿で働く』と、本当に彼自身が心から願っているのか、自信が無くなっていた。
その一連の思いや出来事を師であるヤン・ノベを信じて打ち明けると、今度は三番目の出来事が起きた。
精霊を介した会話を経験したのだ。
相手はあの大神官補佐ことオスカである。
魔力を持たない陸では長くても五分が限度だったが、今まで魔法が完全に使えなかった青年にとっては十分すぎる衝撃だった。元の世界の幻想小説の中に登場する『テレパシー』とか『念話』に近い不可思議なこの手法は、この世界では使い手が少なくて特別な名称がないらしい。初めて経験した陸が何気なく「糸電話じゃなく“精霊電話”って感じですね」と思い浮かべると、異世界に興味があるオスカの質問攻めを食らってしまい、あっという間に初回の対話が終わってしまった。
結局「毎回『精霊を介しての会話』というのはややこしい」というオスカの意見で、精霊電話という名称が採択された。
精霊電話には、仲介する精霊に適した魔法石が必要となる。陸の手元にはファイヤーオパールという炎の精霊と相性のいい石があったので、ヤンがベペルティの技術で加工して身近に使えるように彼のボールペンに仕込み、誕生日のプレゼントとして贈ったのだ。誕生日当日には単純に「ペン先とインク壺をくっつけた代物」とだけ説明していたヤンだったが、かなり苦労して別の使い方を陸に伝えた。ちょこっとだけ禁術級の魔法も使ってみたりした。
この禁術級の魔法というのは、被術者の夢に働きかけて術者が見せたい内容を見せるものだ。しかし「相手に悪夢を見せて心を狂わせよう」と考える者が続出したのでその使用は禁じられている。地味な割に効果抜群な魔法だ。しかも消費する魔力量は少ない。もしかして最近陸が悪夢を見るようになったきっかけは、この禁術が関わっているのかもしれない。しかし、察しの悪い陸に老魔術師が焦れた結果、他に良い方法が思いつかなくてこの禁術に辿り着いたのだ。
あたしも悪いがお前も悪い。
それがヤンの言い分である。
しかし王家にバレたら相当まずいので、彼女には教え子に対して禁術の使用を白状する気も謝罪する気もなかった。
この老魔術師が禁術を使ってまで陸に精霊電話の存在を伝えようとしたのには理由がある。陸に朝夕問わず休みなく張り付く王家の『影』を警戒してのことだ。聖女召喚の儀からほぼずっと陸がどこで何をして、誰と会話し、どんな反応したか、それら全てを休むことなく事細かに監視している。王家の『影』は人ではない。魔法の間者だ。
ごく一部の人間しか知らないその魔法を操るのは、近衛隊隊長の座を与えられた男だった。
名実ともに国王の陰に控えるその一族には、特殊な魔法が代々受け継がれてきた。元々はエティスの魔術師が有していたその魔法が、いつの時代か王家に絶対服従のリンゲン家に入り込んだのだ。以来、この貴族家と王家は強固な関係を築いてきた。
当然のように今の近衛隊隊長ルドルフ・リンゲンも、王家の『影』として陸を監視し、そこで見聞きした情報は全て王家に伝えられているはずだ。
そして、この三つ目の出来事を経験したことで、陸は変わることになる。




