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「あの、ヤン先生は?」

「あの者も誘ったのですが、座る場所がわたしの隣だと聞いて元の馬車に戻ってしまいました。あなたはまだ気分が悪いでしょうから、神殿につくまでこのままゆっくりおやすみなさい」

「でも、王子様の前で寝るのは……」

「ほらほら、気にせず寝ていなさい」


 柔らかな物腰で陸を座席に押し付けてしまうと、ルカスは子どもを寝かしつけるように陸の胸元をトントンと叩いた。


「わたしにも弟がいます。第三王子のネフィウスです。今年十九になるのですが……昔こうして寝かしつけていたのを思い出します」


 徐にルカスが鼻歌を口ずさんだ。咽頭の奥に絡まるような低く甘い声で、ゆったりした抑揚をつけながら唄う。ゴトゴトと低く響く車輪の音もその鼻歌に合わせて調子をとっているように聞こえてきた。


 唄に誘われるようにそっと目を閉じる。

 瞼の向こうには、セーラー服姿の姉の幻が見えた。まだ「姉貴」と呼び始める前の思い出だ。


(……おねぇ……ちゃん……)


 記憶の片隅にある姉の鼻歌とルカス王子の鼻歌が入り混じって一つになる。

 温かくて優しいまどろみの中に意識を手放した。


 陸が美祢と山野辺のおばあちゃん以外の隣で熟睡するのは、恐らくこれが初めてのことだった。




 陸、陸、と誰かが呼ぶ。起きてと肩を揺すぶられ、陸はその手を掴んだ。寝起き特有の不機嫌な低音で呻く。


「……んー……やめろよ、姉ちゃん……」

「いいえ、やめません。リク様、起きてください。神殿ですよ」


 神殿……?

 日常会話ではない単語を耳にして、意識がだんだん浮上する。とても仲睦まじい上瞼と下瞼の何とかこじ開けると、目の前にはヴェールがあった。第二王子を名乗っていた人物のものだ。

 さぁっと眠気が一気に引いた。


「おうじ!!……さ、ま……」

「起きました? ゆっくり休めたようで良かったです」


 しどろもどろになる陸を前に、口元は相変わらず緩く弧を描いている。花嫁のようなヴェールを捲ってみたらもっと素晴らしい光景があるかもしれない、そんな想像をさせる微笑みだ。

 王子の子守唄で熟睡してしまった陸はその頬笑みでとある人物を思い出した。


(……そうか、姉貴に雰囲気が似ているんだ……)


 弟の前ではどこまでも優しく、温かで、無条件に安心感を与える美祢の幻影が見える。もう四カ月離れ離れなのだ。こんなに離れて過ごしたことは記憶にない。中性的な雰囲気を纏っているとはいえ、高貴な男性相手に「姉貴にそっくりです」とは言えないが、心の中で思うくらいなら許してほしい。

 やけに世話を焼こうとするルカスの言動に、あわあわと対応できないでいると馬車の扉がノックされた。呆れ顔の近衛隊隊長が顔を覗かせる。


「……いつまで遊んでいらっしゃるんです?」

「隊長、少しくらいいいじゃない。もう何年もネフューが遊んでくれないのだから」

「そうやっていつまでも第三殿下を子ども扱いされるからですよ。さぁお手を」


 リンゲンはルカスの手を取ると、足元に注意するよう声を掛けた。

 二人の対格差も相まって、さながら馬車から降りようとするお姫様をエスコートするようだ。やはりイケメンは何をしても絵になるなどと見惚れていると、その緑色の双眸が今度は陸に向けられた。


「リク殿」


 外からの灯りに照らされて余計に神々しく見えるリンゲンの、差し出される手は間違いなく陸の方に向けられていて。


「え」

「手をこちらに」


 その真摯な眼差しに被弾した陸は、妙にドキドキしながらその手に触れた。引かれるままに馬車から降り立つ。どこに焦点を合わせたらいいか分からなくて足元ばかり見る。


「あれが『下の神殿』です」


 リンゲンの声に恐る恐る見上げると、そこに広がる光景に感嘆した。


 高い鉄製のフェンスの向こう側に、巨大で壮麗な建物があった。今いる場所から少し距離はあるのだが、それでも規模感はよく分かる。

 早朝に出てきたはずなのにもう辺りはもうすっかり夜になりつつあった。本当に半日掛かりの大移動だ。


 壁面全体には様々な彫刻が施され、薔薇窓には神ウリテルと英雄アクラランを模したステンドグラスが嵌まっていた。他の窓にも、神話の名場面がデザインされていた。建物中央部分に見えるドーム状の屋根には、沈みゆく太陽の最後の一筋に照らされてキラキラと屋根材が光る。神殿正面の幅は恐らく七百メートルはくだらない。奥行はそれの三倍以上あるように見て取れるから、呆れるほどに巨大な建造物だった。周囲には付属の施設なのだろう、見える範囲で四棟の小さな教会のような建物があった。

 宗教など今まで興味のなかった陸だが、元の世界の三大宗教くらいなら知っていた。やはり、というかべきだろうか。目の前の巨大建造物の雰囲気は、十字架がシンボルの宗教施設とよく似ていた。

 そんな巨大神殿の両側には深い森が広がっていた。美祢から『樹海のような森』と聞いていたが、周囲を鬱蒼と囲む闇色の森を見て納得した。迷ったら出られない。そんな空気がある。うっかり迷ってしまったら熊か野犬に襲われてしまいそうだ。もしかしたら狼もいるかもしれない。


 キョロキョロと見回す陸にリンゲンが声を掛け、フェンスで囲われた敷地内にある建物へと促した。入り口には王家の紋章が掲げてあり、王族専用の建物なのだと理解する。さすがに神殿よりも小さいが、三階建てビルはありそうな大きな建物だった。


「ここは?」

「王族が神殿に参拝する際に使用する別荘です」


 すでに王宮から同行してきた使用人たちが荷物を下ろし、バタバタと慌ただしく駆け回っていた。そんな中でルカスとヤンが陸たちを待っている。


「神殿はご覧になりました?」


 先ほどと同じように王子の言葉をヤンが簡易化する。もうそんな必要はないのだが、何か考えがあるのだろう、とりあえず陸は老婆に従うことにした。


「今回は強行軍でしたら疲れたでしょう。部屋を用意してあります。今日はゆっくり休んでください」

「ありがとうございます」


 第二王子は立ち去りかけた近衛隊隊長を呼び止めた。


「隊長、貴方も休んでいいから」

「殿下、しかし」

「ここにはオスカもいる。いいから代わってもらって。これは命令だよ」


 声は穏やかなのに有無を言わさないその風格に、リンゲンは渋々頭を下げた。


「もう貴方の部屋に向かっていると思う。食事も運ばせる。二人でたまにはゆっくりしたらどう?」


 今度はあからさまな渋面をしていた。


 陸とヤンはそれぞれの部屋に通された。シンプルな造りだ。ベッドと、机と椅子だけがある。まさに寝るためだけの造りに陸は好感が持てた。大体王宮のあの部屋は無駄に広すぎるのだ。十人くらいで使っていた方が絶対に有効活用できる。

 ヤンの部屋は陸の隣だ。入れてもらえるかは別として、何かあればすぐに訪ねることができた。

 夕食はどうするかと尋ねられたので、軽くつまめるものをお願いした。とてもじゃないがもう肉の塊とか脂っこいものを食べる気力がない。サンドイッチやおにぎりなど、そんなものでいい。


(おにぎりか……食べたいな……)


 アクラランではコメは作られるものの、パラパラしていて握るには適していない。サフランや野菜と一緒に炊いたご飯にこってりしたソースを絡めて食べることはあるが、白米だけで食べることはあまり一般的ではないのだ。

 人間、ないことを思い出すと食べたくなるもので、陸は次の呼び出しがかかるまでベッドの上でひたすらおにぎりのことを考えることにした。


 昔はよく美祢がおにぎりを握ってくれた。弟のために小さな手できれいな三角形を作ろうとして握り固めてしまっていた。山野辺のおばあちゃんはそれを見るたびに梅干し顔をしわくちゃにしてお手本を見せてくれた。中に詰めるのは大体梅干しかおかかだ。特に梅干しは山野辺のおばあちゃん手作りのはちみつ入りの梅干しだ。美祢は酸っぱいのが苦手で、陸は大好きだった。海苔を全面に貼り付けて、怪獣になった気分で噛みついた。あの時の二人の笑い声を思い出す。


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