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ヤン・ノベ視点です。
「杖で攻撃して、悪かった」
涙目、顔面蒼白で腹を押さえる教え子に、ヤンは謝りながらもその頭の先から足の先まで確認する。七カ国を巡り、方言や古代語にまで食指を動かし、言葉のことならある程度の知識を仕入れたと思っていたのだが、どうやらそれはうぬぼれだったようだ。何度も目の前の事象をうまく表現できないかと思案してみたが、一つしか思い浮かばない。
あまりにも陳腐でもう少し何か捻りたいところだが、これが最もしっくりきた。
(……奇跡が、起きた……)
護衛の第一騎士団所属隊員たちやそれ以外に悟られぬよう、思わず物理的に黙らせてしまったが、恐らく陸には神の領域の出来事が起きた。半年間ほぼ毎日陸と向き合ってきたヤン・ノベだからこそ、あの短いやり取りで判別できたことだ。
「お前は負傷したから静かに歩こう。痛かったら言いなさい。痛くなければ歩きなさい」
ゆっくりと城門へと向かいながら考える。
何故陸が突然聖女と同じように言葉が理解できるようになったのか、そのきっかけや過程がさっぱり分からない。『呪いのファイヤーオパール』とやらにはそのような魔力はなかった。石を売っていた店でも何も感じなかった。
(……そういえば、)
店にいる時、店内中の時計が一斉になった。四時を告げるチャイムだ。その後で陸が少女を見たかと聞いてきたが、ヤンはそのような人物など見ていなかった。あとでどのような容姿だったか確認しなければならない。今この場で問いただしたいところだが、それは憚られた。
何故なら、――。
(――……まさか城外にまで王家の『影』が付いてこられるとは)
老魔術師は静かに舌打ちした。
王家の『影』というのはいわゆる国王直属のスパイだ。国王の命を受けて情報を探る存在などどこの国にもあるのだが、アクララン国王のそれは特別だった。
ごく一部の王族とその側近たちしか知らない存在だが、アクララン王国には特殊な魔法を操る者がいた。それは『影遣い』とも呼ばれ、常に国王や王族の傍に付き従い、国家の中枢で静かに存在する。「壁に目あり、障子に耳あり」とかいう諺はこの国にはないが、同じように表現するなら「影に『影』あり」になるだろう。
文字通り、影なのだ。
祖先に非常に強い魔力を有する魔術師がいたのだろうとは、老魔術師には容易に想像できた。何故なら、今は断絶しているが、昔はエティスにもよく似た能力を持つ一族がいたからだ。
今世の影遣いは魔術師ではない、貴族名鑑にも名を連ねる貴族だ。
しかしただの貴族ではない。アクララン王家に忠誠を誓ってからかなりの年月が経っている名門貴族なのだ。歴史の古さで言えば上から七番目くらいかもしれない。
アクララン王国にはそのような存在がもう一つ、――近衛隊である。
近衛隊は王宮の警備と王族の身辺警護を行う特別な部隊だ。王家への揺ぎ無い忠誠心を抱き、武勇に秀でた貴族出身の若者たちで構成されている。アクララン王国には様々な部隊があるが、その中でも近衛隊は特殊で限りなく国王に近しい。その隊長ともなれば国王とは一心同体といえるほどだ。
そんな近衛隊隊長職を担うルドルフ=クルト・リンゲンは、代々近衛隊隊長を輩出する名門貴族リンゲン辺境伯の次男である。幼い頃から並外れた剣の腕前を有し、様々な部隊で経験を積んでから数年前に現職に就いた。
近衛隊の一員として強さだけではなく見た目の良さも求められるだけあって、はっきり言ってリンゲンの容姿は整っていた。それも神の寵愛でも受けたかと思うくらいに。
漆黒の艶髪は襟足で整えられ、長い睫毛の間にはエメラルド色の瞳が嵌め込まれている。無駄な筋肉のないすらりとした体格は、完璧な芸術品のようだと誉めそやされた。誰もがすれ違いざまに視線を奪われ、思わず振り返ってしまいそうな、独特の雰囲気を纏った貴公子だ。
しかも左目には小さな泣き黒子がある。その黒点の悩ましさに、添えられる憂いを帯びた眼差しに、次々と気絶する貴婦人が続出したという逸話もあるほどだ。もしも彼が女の身で生まれたならば、間違いなく傾国の美女となっていたことだろう。
ヤンはあの美貌を思い出して頭が痛くなった。
近衛隊隊長として表舞台でも、王家の『影』として裏側でも。
燦然と光り輝く国王の傍に控える男は、立場的にも実務的にも『影』として主を支えていた。決して主を裏切ることのない花影は、知り得た情報を国王と宰相に過不足なくありのまま伝えるはずだ。
だがしかし、陸に起きた奇跡――言葉の壁が払しょくされたことは喜ばしいのだが、陸を取り巻く環境を考えた時に直ちに国王に報告することは躊躇われた。
(咄嗟に陸を殴ってしまったが……。まだ王に伝わってはいけない気がする)
大変珍しいことに、ヤンは何故躊躇ったか理由を組み立てることが難しかった。「泣きそうな顔で美祢に陸を頼まれたから」なのだが、さらに何故なのかと聞かれてしまえば言葉に窮してしまう。
この老魔術師は、いつかの夜の国王と美祢の会話を知らない。
長らく建国伝説を研究してきてその内容に疑念を抱いたが、まだ確証しているわけでもない。
ただ何となく美祢を思い出して直観に従ったのだが、ヤン・ノベは後にこの判断は正しかったのだと知る。
城下を歩き回る陸の周りに覚えのある魔力を感じた時には、あの魔法の影響力は宮内だけではないのかと少なからず驚いたが、緊急事態が起きてからはただひたすらに苦々しい。普通に会話をすれば全て筒抜けになってしまうのだから。
魔法はその規模が大きいほどに、あるいは術者との距離が離れているほど、魔力と体力を激しく消耗する。そのため平凡な魔術師は短命であることが多く、それに合わせて全体的な魔術師の数も少ない。それ故、「魔術師の魂は魔力」とも言われている。
ヤンには影遣いの魔法の適性はないのだが、「相当しんどい魔法である」とは遠い昔にエティスの文献で読んだことがある。文献に記載されたことを読み進めるうちに、どのようにしんどいのか想像するに難くなかった。
影遣いの魔法を発動している間は、術者本人と影は別行動をする。つまり一人で同時に最低二か所の情報を処理するのだ。もしかしたらリンゲンの場合には三か所かもしれない。しかも、隊長としての役割を果たしつつ、だ。
鋼より硬い忠誠心を持っているにしても、恐ろしいほどの精神力と魔力量である。
そのうえ、肉体は寝なければならないが影には休む必要がない。その特異な魔法を使い続けている限り、本当に休める時間などないのだ。騎士として鍛錬された肉体のあの生ける芸術作品は、それを聖女召喚の儀から半年近くも続けていると思われる。
いくら心技体に優れた近衛隊隊長とはいえ、少々扱き使いすぎではないだろうかとヤンは思う――いっそ憐憫の情を禁じえない。
何度か「近衛隊隊長には独特の色気がある」と囁かれているのを耳にしたが、それは違う。立場と矜持があるから何とか誤魔化しているだけで、アレは色気ではなく激しい疲労であり、憂いを帯びた目元はつまり眠いのだ。
魂が抜けそうなほど深いため息を吐きだしていると、隣を歩く陸が覗き込んできた。顔色はすっかり元に戻り、先ほどの「痛ければ言え、痛くなければ歩け」という師の言葉を忠実に守っている。それだけで陸にとって『山野辺のおばあちゃん』という存在がいかに大きかったかうかがい知れた。
「リク、言葉には気を付けるように」
王宮に戻ったら、これまで以上に気を引き締めなければならない。
まずはどうやって誰にも疑われずに陸と意思の疎通を図るか、考えなければならなかった。
一行は城門の門番に国王から与えられた身分証を示してすんなりと入城する。最後に、第一騎士団の面々から近衛隊の面々に陸とヤンが引き渡された。急に華やぐ視界に面喰う陸を面白く思いつつ、今日はもう休みなさいと言い残してヤンは自室に戻る教え子を見送る。
以前は固い表情が多かった陸だが、今の彼は本当に表情豊かだ。特に喜怒哀楽の「喜」と「楽」をはっきり示すようになった。これまでに二三度、姉と一緒にいるのを見かけた時にはもっと感情を表に出しているようだったから、相手に対する信頼の度合いによるのかもしれない。
その点、ヤンの容姿はかなり有利だ。
同時に思う。
元の世界の彼の家庭は、こちら側の影響をどれほど受けていたのだろうか、と。
陸がいなければ、美祢も過去の聖女たちと同じように孤独で、救いを求めて神に縋っていたのだろうか、と。
(……とりあえず王に戻りの報告をしたら、さっさと部屋に戻ってリクにしてやれることを考えねば)
あれこれ考えた魔術師は手にした杖で床を二度打つ。次の瞬間には老魔術師の姿は消えていた。




