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「……でも、正確には私が抱えて連れてきちゃったのよね。本当にごめん」

「あれは不可抗力だろ、謝るなよ。あの時姉貴が抱えてくれなかったら俺、今頃絶対に瓶で頭かち割られて死んでいたぜ? ……それにこっちの世界に割と馴染んでいるからいいし。むしろ感謝しているくらいだし……」

「そっか」


 沈みかける姉の気分を紛らわせるために、陸は最近学んだ知識をいくつか披露した。夜部屋に戻ったら与えられたダンベルナイフも見せると約束し、体を鍛えて剣術を習うのだと胸を張った。一人でも元気にやっているからと務めに集中しろと発破もかけた。


「別にこれで一生会えなくなるってわけじゃないんだし、あんまり落ち込むなよ。な?」


 寝ころんでいるのをいいことに、適当な位置にある頭を軽くポンポンと叩く。

 少し調子に乗ったかと首を傾けると、そこには想像していなかった横顔があった。眉を寄せ、潤んだ瞳はガラス玉のように空の色を反射し、口は堅く結んでいる。そのただならぬ様子に陸は思わず起き上がった。


「あ、姉貴?」

「陸、あの、ね、……実はね」

《「リク、何をしている?」》


 突然響いた嗄れ声の方を見ると、二人が寝ころんでいた中庭を囲む回廊に特徴的な魔術師の杖を持った小さな老婆がいた。しわくちゃの顔に埋め込まれた琥珀色の瞳が怪訝そうだ。

 小さな身長にあわせて二人が芝生に座り込むと、ヤンは久しぶりに会った陸の姉に深々と頭を下げた。


「聖女様にご挨拶を」

「あなたは弟の師です、ヤン先生。どうか頭をお上げください」

「しかしご挨拶を」

「その本人がやめてくださいと言っています。どうか気楽にしてください」


 ヤンは渋々承諾すると、改めて二人に何をしていたのか問いかけた。いくら自由時間とはいえ芝生に寝ころんでいたら服に皺ができてしまうし虫が隙間に入り込んでくる。所作としても美しくない。

 いかにも先生らしく指摘するヤンに、美祢は謝りつつ、丁度会いたかったのだとその皺だらけの手を握った。


「こうしてお会いできて良かった。私、先生にお礼が言いたかったのです」

「お礼?」

「はい。短い期間にも関わらず、弟に多くの知識を授けてくださったことに心から感謝します。先生がいなければ陸がどうなっていたか分かりません」

「それは本人の努力もありましょう。彼は実にいい生徒です」

「その努力を認め、伸ばしてくださったのは先生のご指導あってのことです。どうかこれからも、弟の助けになってやってください。……私がここに来られなくても大丈夫なように」


 たおやかなか細い両手がヤンの手を縋るように握る。軋む骨の痛みではなく、美祢の言葉の一部に秘められた強い何かに、老婆はピクリと反応した。


「……神殿に籠られるのかですか?」

「はい、来週からは王宮に戻りません。だからどうか、陸をお願いします」


 ヤンはこの会話の大部分を理解しているらしい陸を一瞥した。

 今のところ「聖女の能力ではないか」と考えられているが、美祢の言葉は陸には母国語に、ヤンや国王たちにはアクララン語に聞こえる。話者自身がどちらの言葉で話しているのか分からないが、少なくとも発信側は一つの言語のつもりでも受信側が二か国語の状態になっているらしい。七つの国々を長らく巡ってきたが一度もそのような事象など聞いたことがなかったのだが、実際に今立ち会っている。言葉に魅了された者としては実に興味深いのだが、それ以外の意味でも胸を打たれた。伊達に長生きしているのではない。


「このヤン・ノベ、これからもリク殿の教育係として誠心誠意尽くしましょう。例えどのような環境に置かれても、まっとうに人生が送れるような知恵を授けましょう」

「ありがとうございます、先生」


 一瞬曇る面相を安心させるようにその華奢な方を撫でる。それから雰囲気を変えるようにパンッと軽く叩くと、二人にそろそろ夕食の間に行く時間ではないかと声を張った。




 それは麗らかな朝だった。

 夏と秋が同居しているような青天が広がり、どこからともなく鳥の軽やかなさえずりが聞こえていた。眩い陽の光も、独特のゆがみがあるガラスを通じて柔らかく部屋に差し込んでいる。魔法による空調管理が行われている王宮では年中快適に過ごせるが、恐らくその範囲を抜けてからも快適な空気が身を包んでくれることだろう。

 何とも気持ちのいい朝を迎えた豪奢な造りの部屋の中で目覚めた陸は、この世の終わりのような顔をしてベッドに突っ伏した。


(……マジかよ)


 絶望のあまり動く気にもならない。この世界に召喚されてから初めてのことだ。


 理由は昨夜見た夢にあった。


 ------


 どこまでも続く白い空間の中で、陸は姉の美祢と向き合っていた。否、正しくは美祢にそっくりな女と向き合っていた。

 いつか見た白いドレス姿で現れた彼女が自分の姉ではないと気づいたのは、その色彩の違いからだった。美祢は黒髪黒目だが、女は柔らかい茶髪に琥珀色の瞳をしていた。あまりにも似ていたので、髪色を変えてカラーコンタクトレンズを入れたら、こんな感じになるのだろう。

 聖母の顔をした彼女には、全てを許し受け入れてくれそうな雰囲気があって、それは彼にとってはとても馴染のあるものだ。だから最初、姉だと思ってしまった。


「あなたを祝福します」


 天の声が白い空間に降り注ぎ、白い手袋が大人になりきっていない頬を包むと女は額、両頬と唇を落とした。

 されるがまま動けずにいる陸は、一言一句、一挙手一投足を逃すまいと目の前の女に全ての意識を集中した。


「……どうか、お助けください」


 鼻の先がくっつきそうな距離で再び天の声があり、女はそのまま顔を近づける。――唇に、柔らかい感触があった。


 ------


 夢の内容を思い出してひたすら悶絶した。掛布を蹴り上げながら大人三人は横になれるベッドの上をゴロゴロと何度も転げまわり、腹部に激しい打撃を食らったかのように体を折り曲げる。喉の奥から悪霊のような呻き声が漏れ、頭を掻きむしり、死にかけの何かのように痙攣してからついに脱力した。

 姉ではないが姉そっくりな女とキスする夢を見てしまったのだ。

 ウェディングドレスのような衣装に身を包んだ美祢を見て、姉でなければ一目惚れしていたかもなどと考えたこともあった陸には、いろいろと絶望するしかなかった。


(いや、いやいやいやいやいや。マジで待て自分。一旦落ち着け)


 ありえない。あってはならない。断じてならない。

 大体、いくら身近な女性が数少ないとはいえ、異性の好みくらいはある。

 陸の好みは、こう、清潔感があって可愛らしくて優しくておっとりしていて……。


(……割と当てはまってるううううううううううううう!!!!!!!)


 アクララン王国に来てから美祢への態度が急激に変化している自覚はあった。あったがそれは暗い牢獄のような家から心身ともに解放され、それまでの常識とは異なる世界に興奮して開放的になったからのはずだ。断じて自分は姉に対して特別な感情を持っていない。いや、持っているがそれはあくまでも家族への愛情であって、異性としては違うはずだ。


(……ヤバいだろ。ヤバいだろヤバいだろ!!!!!!)


 肝は冷えているのに顔は熱い。

 枕に顔を押し付けて叫ぶ。部屋の外にまで奇声が聞こえないことを祈りながら叫ぶ。酸欠でくらくらしてからようやく枕を解放した。未だ変な鼓動を刻み続ける心臓にはおいおい落ち着いていただくとして、早くしなければいつものように使用人たちが来てしまう。


 貴族以上の身分の者は使用人たちに着替えを手伝ってもらうのだが、陸はそれを固辞していた。人にべたべた体を触られるのも嫌だし、何より自分ひとりで着替えられる。人の手を借りることに抵抗があった。互いのプライドをかけた熾烈な戦いを経て、着替えに手出しは無用と分かってはもらえたものの、うっかり寝坊をすると慣れた手つきで寝間着をはぎ取られそうになるのだ。


 深呼吸してからベッドから出ようとして、陸は再び絶望した。

 そしてすごすごと部屋に備えられた浴室へと消えていった。




 複雑な感情を抱えたまま数日を過ごした陸だが、秋も半分過ぎる頃になってようやく周囲が少し慌ただしく動いていることに気付いた。

 何事かとヤンに聞いてみると、ついに美祢が神の啓示を受け、南部の港町の戦況が改善したのだという。なんと喜ばしい知らせだろうか。


 穀倉地帯が広がるアクララン南部の港町は、大陸を分断する巨大な切り裂き山脈を挟んで隣のケチャ・ラン国からやってくる海賊たちにより、長期にわたって襲撃を受けていた。町の周囲に強固な要塞を築き、襲撃と略奪に対抗してきたのだが、ケチャ・ラン国は医療と科学に秀でた国家だ。対抗するためにアクララン側が船を出しても、毎回見たこともないような武器を持ち込まれ一方の勝利が続いていた。しかも毎回絶妙なタイミングで海賊たちが引き上げるので真綿で首を締めるような負け方が続いていた。


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