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 坂道をだんだん加速して転げ落ち、ぼろぼろと崩れていく脆い土塊。陸が抱く朝桐家の印象はこんなものだった。

 壊れていく家族の間をなんとか繋ぎ止め支えようと、昔から孤軍奮闘する姉の姿を見てきた陸は『姉の負担になりたくない』と心のどこかで常に思っていた。それは勉強を頑張ることであったし、父親との衝突を回避するために極力家を避けることであった。仕事で疲れ果てている姉に逆らおうと思ったことは滅多にないが、どうしても思春期特有の感情の波が抑えられない時には部屋の中に閉じこもった。

 正しい努力であったのかは分からないが、とにかく思いついた方法がそれらだった。


 こちらの世界に召喚されてからも、初回の国王との謁見で「男の陸は不要だった」という空気を感じ取ってからはその思いがより強くなった。言葉もまともに理解できない今の自分はただいるだけで姉のお荷物になっている。認めたくはなかったが、それが事実だった。


 だからヤン・ノベたちから教わる知識を死に物狂いで吸収しようとした。簡単な挨拶だったり、食事の時に取り分けてほしいものを伝えたり、二、三語で済むような会話はできるようになった。

 姉の『聖女』としての評判や品位に関わると聞いていたので、多少恥ずかしくてもマナー講座も真面目に受けた。

 小腹を満たすための軽食は、陸の好みをまだ知らない厨房に知らせるため、好き嫌いを細かく聞かれるので少しハードルが高かった。だがそれも、次回の再会までには完璧にマスターしてみせる。

 美祢が聖女としての責務をちゃんと果たせるように、陸は自分ができることに取り組んでいた。


 しかし、例え言語をそれなりに覚えたとしても、今度は『陸の独り立ち』という課題が残る。


 元の世界でも将来何をするか迷っていたが、こちらの世界ではどんな道が選べるのか未知数だ。放浪の旅に出るのはどうかとか、城下におりて商売をしてみるのはどうかとか、住み慣れてきた王宮の中で働けるよう交渉するのはどうかとか。思いつくままにいろいろ考えていたが、初めて白く美しい彫像と出会って、別の道もあるのだと閃いた。


 とりあえず、姉がいる神殿で働くのはどうか?

 よく分からないが、離れて暮らすよりも顔を合わせるチャンスがありそうだ。例え遠目からでもお互いに元気な姿を確認できたら、多少の心配事は払しょくされるはず。それに、ある程度の周期で聖女は入れ替わるらしいから、美祢が役目を終えたらまた一緒に、あるいは近い距離で暮らせるようになるかもしれない。

 そして将来それぞれに大切な人ができたら、ともにその幸せを分かち合えるかもしれない。


 伝えたいことが前後してうまくまとまらなかった。気持ちを的確に表現しきれないもどかしさに何度も言葉を言い換えながら、何とか必死に言葉を紡ぐ。


「俺たち、たった二人の姉弟じゃん。だから、この先もお互い助け合っていけたら、まぁ、大抵のことは大丈夫なは、ず……って、ぉわっ?!」


 気恥ずかしくてだんだんそっぽを向いてしまった体勢のまま相手を窺い、ぎょっとした。

 美祢は泣いていた。

 ぽかんと口を開け、呆けた顔ではらはらと涙を溢れさせている。せっかくきれいに施された化粧も涙で崩れてひどい状態だ。

 想定外の反応で戸惑いのあまりあわあわとおかしな動きをしてしまったが、ポケットに突っ込んでいたハンカチーフで姉の涙を拭ってやる。トイレの後に手を拭いた布切れではあるが、今はそんなこと記憶の彼方に吹き飛んでいた。

 ゴシゴシと少し乱暴に涙を拭われて、美祢はタガが外れたように泣き出した。


「……っ……リ、くぅ……りくぅ……」

「うわっ!」


 うわぁっと小さな子どものように嗚咽ししがみ付いてくる姉を、ぎこちなく腕の中に迎え入れた。信じられないほど華奢な体を覆いかぶさるように抱き締め、こんな頼りない体で今まで自分を助けてくれていたのかと、陸は改めて愕然する。


「陸、ありがとっ……そ、んな、ふうに、考え、っ……く、れて……ありがと、う……」

「まぁ、な。……なぁ、姉貴泣くなよ」

「ム、りぃ……。りく、陸……わ、たしも……私も、陸が大好きよ……」


 苦しいほどにしがみ付いてくる細い腕に、「大好きなんて言ってないだろう!」とは言えなかった。その代わりに、昔を思い出して美祢の背中をトントン叩き、ゆらゆらと体を揺らす。


「陸、陸、陸っ! ……私も、陸と一緒にいたい……助け合って、生きたいよ……!」


 元の世界にいる時でさえ、美祢はこんなに声を張り上げて泣いたことがない。

 それが突然、自分という大きな問題を抱えたまま見知らぬ世界に呼び出され、ろくな準備期間もなく「聖女として責務を果たしてほしい」と祀り上げられたのだ。

 気が休まる暇もなかったことだろう。


 目覚めたばかりの陸が軽いパニック状態になった時も、大丈夫だと母親のように抱き締め落ち着けてくれた。その後で言葉の問題が発覚してからもすぐに的確に対応してくれた。いっそ異常なまでに冷静だった。

 それが弟の独白を聞いて、人目もはばからず泣きじゃくっている。

 抱き締める腕に力が入った。


 どれくらい時間が経っただろうか。少し落ち着いてきた腕の中身がもぞもぞと動いた。


「でも、でも……私のために、自分の人生を諦めなくてもいいのよ。陸は陸の人生を」

「っ、……ちょっと黙って」


 至近距離から見上げてくる姉の泣き顔にどきりとしつつ、再び腕の中に抑え込む。

 陸には美祢がどんなに不安だったか、本当の意味では分からない。どんなに孤独だったかも分からない。何故なら、陸はずっと『美祢』という大きな傘に守られてきたのだから。


 いつまでもその傘に頼っているわけにはいかなかった。陸がいる限り、美祢はきっと彼を気にし続けるだろう。

 ならば彼は強くならなければならなかった。少しでも美祢が気を揉まなくて済むように、姉という大きな庇護がなくても生きていけると証明しなければならないと思った。

 だから学ぶのだ。だから将来についても考えるのだ。


「大丈夫、ちゃんと自分の生き方を考えるよ。大体さ、姉貴は頑張りすぎ。……ちょっとは俺を頼ってよ」


 それとも頼りないかと拗ねた声を出せば、腕の中の黒髪が揺れる。


「ううん……そんなこと、ない」

「じゃぁ」

「でも神殿で働くことは駄目」

「え?」


 妙案だと思っていたのに、涙声で反対された陸は面喰った。

 これまで陸の意見を美祢が明確に反対されたことはなかったのだ。せいぜい、間違った考えを持っていたら受け入れつつも望ましい方向にさり気なく誘導するくらいだろうか。

 納得がいかないと口を尖らせる弟に再度、「自分の人生をちゃんと考えなさい」と美祢は年上の意見を述べつつ甘えるように体を預けた。

 そして万感の思いに、再び涙を溢した。


「でもね、陸の気持ち、すごく嬉しい……陸、ありがとう」




 その翌日の昼、美祢は神殿に戻った。


 馬車に乗り込む姉に向かって「姉貴が泣き虫とは知らなかった」などと冷やかすと、美祢は前夜号泣して赤くなった目元を両手で隠そうとした。元の世界にいる時よりも美祢の表情がころころ変わるのでからかい甲斐がある。

 二人の賑やかなやり取りに、周囲に控える騎士や侍従たちまでもが笑いを堪えていた。


「またね!」


 どちらからともなく次の再会を約束した。

 走り去る馬車が見えなくなるまで手を大きく振り続けた陸は、晴れやかな気持ちで胸がいっぱいになった。


 新しい目標ができた。『姉を支えるために神殿で働く』という明確な目標だ。


 出発間際まで美祢は陸の考えに一定の理解を示しつつも、神殿で働くことには賛成せず、何度も考え直すように繰り返した。


 何度も考え直した結果、やはり美祢を支えたい。

 そう考えるのは陸の自由だし、彼女がそこに責任を感じることはないはずだ。

 優しい姉に対して多少の後ろめたさもあるが、残念ながら陸の結論は変わらなかった。


 護衛の騎士たちを引き連れながら王宮内をうろついて、今後のことについて思案する。


 神殿で働くにしても男の陸は必ず『下の神殿』で務めることになる。神ウリテルへの奉仕を望む者たちには広く開かれているとは言ったものの、彼が奉仕したいのは姉である美祢のためだ。

 現時点では『聖女の弟』という立場があるので周囲が傅いているが、神官になれば今度は神様と姉に傅くことになる。下っ端神官として働くならばある程度言葉が分かるようになっていなければ絶対に苦労するし、美祢にも迷惑が掛かりかねない。


 どんな宗教においても、ややこしい儀式や独特の言葉使いが多い印象があった。美祢の『聖女期間』が完了し、神殿で働く大きな理由がなくなった時には別の道を考えるようになるかもしれない。転職を考えた時に『神官は一生神官のまま』という制約が付いていては後々面倒だ。

 それにアクララン王国では建国伝説を土台にしているから宗教との繋がりも強い。宗教だけではなく、アクララン王国についてもしっかり理解する必要があった。


「……やべぇ。学校の勉強より大変じゃん」


 しかしいつまでも弱音は吐いていられない。今しがたやると決めたばかりなのだ。


 翌日からの猛勉強に向けて、陸は「よしっ」と両方の拳に気合を入れた。


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