1.2人の距離 -2-
結局、この世界は夢の世界のようでそうじゃない。
私がその結論に至ったのは、治療台代わりのベッドの上で目を覚ました次の日だった。
「……」
土砂降りの雨音に目が覚めた朝。
健康体でいることにスッカリ慣れてしまい、上手く動かせない体がもどかしく感じる。
この状態から少し良くなった程度で拳銃を撃ち…今から考えれば乗り辛い車を運転していたのが信じられなかった。
目が覚めたのは、随分と遠い昔の記憶になってしまった部長の家。
そこは何の変哲も無いアパートの一室だった。
部屋は私のと、部長のと…居間と水場…後から聞いた話なのだが、部長は私を治して教育しなおすために、わざわざ移ったらしい。
それを知っている今の自分から見れば、感謝してもしきれない。
だけど、この時の私は誰にも口を聞くつもりもなかった。
まるで懐かない犬か猫だ。
私は誰も見ていない部屋の中、ベッドの上から見える鏡に映った自分に笑いかけて首を左右に振る。
今の、この時の裏話を色々と知ってしまった自分が過去の自分を演じれるのだろうか?
昨日…部長とここに戻ってきて、彼女の反応やらを見て、私の方針はそう決まった。
この世界が一体何なのか知らないが、ここは私が過ごした過去の3軸で、もし…万が一この前まで居た世界が私の夢…つまりはここに移動してくる前の世界が変だったのだとしたら…私はこの3軸でまたやり直すしかない…
そんなことは先ず有り得ないが、だからといってこの謎の空間で私が異常者になるわけに行かないのは明白だ。
可能性世界を管理している人間は、夢の世界でも管理対象になるらしいのだから…
となると、今私が居るこの世界もそうであって不思議ではない。
レコードを持っているなら尚更………私は私を演じずに、過去の傷だらけの自分を演じた方がこの世界にとっては健全なはず…
私は寝起きのボサボサ頭をかき混ぜながら考えを纏めていく。
兎に角こうなった現実を受け入れて動くしかない。
幸い、表情が豊かになったと言われ出した最近の私に比べて、過去の…今の私は表情を動かしにくいから、ポーカーフェイスを作るのは簡単だろう。
まだ部長も私のことを腫れ物に触るような感じで扱ってた頃だし、避けるように接すれば問題ないはずだ。
私はすき間から日差しが差し込んでいるカーテンを開けると、ふーっと溜息を一つ付いて部屋を出た。
「あら、珍しく早起きなのね」
部屋を出ると、既に普段着に着替えていた部長がソファに座っていた。
私は部長の方を一瞥すると、小さく会釈するだけで洗面台の方に歩いていく。
歯磨きに洗面、ボサボサになった髪を梳かす程度だから、時間はそんなに掛からない。
私は思うように動かない体に難儀しながらも、何とかこの時代の"普通"位には髪を梳かし終えて居間に戻った。
「寝ぼけてる?」
居間に戻るついでに、冷蔵庫から朝食代わりのコーラの缶を持って行った私に部長が言う。
私は首を傾げて答えると、彼女は呆れ顔を浮かべながら私の手を引いて横に座らせた。
「髪、寝癖だらけじゃない。少しはシャキッとしなさい…」
彼女はそう言いながら、何処からか取り出した櫛で私の髪を梳かし始めた。
私は気にしない風を装ってコーラのタブを開けて口を付ける。
構いたがりだった部長のことだから、最近の事だったり、これからの予定だったりは話してくれるはずだ。
「はい!終わり!右目は隠すんでしょ?」
私はコーラをテーブルに置いて、髪を触ってみる。
さっきはこれくらいで良いかと思っていた跳ねも消えていた。
「さて…着替えてきたら仕事よ。流れは最近やってるのと同じ。まずは私に付いてきて覚えて行けばいいから」
部長は何も反応のない私にそう言うと、レコードを開いて私の顔の前に持ってくる。
私は目の前に出されたレコードに目を通すと、ページが処置対象で真っ赤に染まっていた。
「滅多にこうならないんだけれど。幸い新人研修をするのに題材には困らなさそうね」
そういった部長を、私は何も言わずにじっと見つめる。
働き盛りの…この仕事一筋みたいな…出来る女の人なんだなと、他人事のように思っていた過去が懐かしい。
その裏では、どんな葛藤があるのか知らないが…昭和に戻って壊れかけた部長を見てしまっている私は、彼女が少し無理をして明るく振舞っているようにも感じ取れる。
「ねぇ、今日は釣れないのね。何時もなら、レナはここまで一言か二言は帰ってくるのに」
部長はコーラをチビチビと飲んでいる私にそう言った。
私はゆっくりと部長の方を振り向いて首を傾げる。
「何かあった?」
彼女の問いに、コーラを飲んだまま首を左右に振る。
丁度コーラが尽きかけた頃だったので、一気に残りを飲み干した。
「別に」
空の缶を手に持った私は、短く簡潔にそう言うと、ソファから立って自室に戻る。
寝間着を脱ぎ捨てて、自室の小さな箪笥に入っている私服を適当に取って着替えた。
殆ど部長が買ってくれたもの。
私の家から取ってきたものも、最初の内はあったはずなのだが…私が良い顔をしないのと、単純に部長の趣味じゃないから、この時期には殆ど捨てられていたはずだ。
丈の長いスカートにYシャツ。
私にとってはお馴染みの組み合わせだ。
サッと着替えた私は、自室を出る。
分かっていたかのように部長が立ち上がって、車のキーを取って鼻を鳴らした。
「賭け事してるのよ」
家を出て、真っ赤なスポーツカーの助手席に乗った時。
部長がそう切り出した。
「今月中にレナに名前を呼んでもらう!」
私は助手席で窓の外を眺めながら、思わず吹き出しそうになった。
"無理だと思いますよ?あの時の私が相手なら"
過去ではない、未来の私ならきっとこう返す。
「今日のレナには無理だろうけれど、案外出来ると思ってるのよ」
部長はそう言いながら、シフトレバーを動かす。
私は部長の言葉を聞きながら助手席でレコードを開いた。
「もう少しで治療も終わるって聞いたし。これからは……え?」
レコードのページをじっと見ている私は、部長の驚いた声で顔を上げて彼女の方を見る。
彼女はほんの少し表情を引き締めると、運転席側から助手席の窓を開けた。
「今日は酔わないのね?」
彼女の言葉を聞いて私は背筋を少し凍らせる。
そう言えば、この時期の私はまだ部長の運転でも酔うんだった。
失敗した…などという考えが頭によぎったが、今は"過去の私"…体はそれを認知すると一気に顔を青ざめさせる。
「……言わなければ、酔わなかったのに」
最近はレンの運転でしか車に乗っていなかったせいで、久しぶりに感じる酔いの感覚に参ってしまった。
レコードを閉じて、窓の外の空気を求めて顔を車外に出す。
何も反応しないのに、こういう時だけ口に出るのは…過去の私の再現だ。
「ああ…集中していたのね。御免なさい」
反応が余りにも急だったせいか、部長はバツが悪そうに言うとハザードを付けて路肩に車を止めてくれた。
「なんか今日は不思議なレナね。何時もより口数は少ないけれど、目は据わってるし、かと思ったら何時ものレナに戻ってる」
私は部長が言っていることを聞き流しながら、窓の外の空気を吸っては吐いていた。
少し経って、助手席に座りなおした時にはすっかり元に戻ったが…
中身は私でも体はまるで別人だ。
「大丈夫?」
部長の問いにコクリと頷くと、車は再び幹線道路の流れに乗る。
目的地は、勝神威市の中心部だった。
「付いてきて」
商店街近くのパーキングに車を止めて、外に出る。
夏でも涼しい80年代とは違って、この時代の夏は暑くて仕方がない。
傷だらけの腕を晒すつもりは毛頭ないから、暑さを我慢するほかなかった。
「一先ず6人。全部街中で済むからそんなに掛からないと思うけれど、それでも終わるのはお昼過ぎね。それが終わったら、もう一回レコードを見直して決めましょう」
私の歩く速度に合わせてくれている部長は、レコードを開きながらそう言うと、私にレコードを寄越した。
私が部長のレコードに目を向けている間に、彼女は注射器を取り出す。
「注射器は一昨日使ったでしょ?今日はこっちを使う番」
そう言いながら、彼女は注射器ともう一つ…手帳を取り出した。
私はポケットの中を探って手帳を取り出す。
どうやらこの前は私が注射器担当で、部長が手帳担当だったらしい。
今日は逆…
私が手帳を出して相手を止めて、部長が処置を行うわけだ。
普通だったら1人でやるものだが…部長からしてみれば、この時の私を1人で放置することほど怖いものも無いのだろう。
私は無口で表情も変えない"平岸レナ"を演じながら、過去の部長をじっと見つめる。
彼女は手帳をポケットに仕舞うと、私に手渡したレコードを取って左手に持った。
昼間の街を少し歩くと、早速処置対象の姿が見えた。
名前はよく見ていないが、何処かの銀行に勤める男だったはず。
「……待って」
私は彼の前に立ちふさがると、そう言って手帳を突き出す。
一時的にこの世界から切り離された男の首筋に、部長が注射器を突き立てた。
中身が全て注入されるまで、ほんの数秒。
「絵に描いたような悪代官の腰巾着君。どうぞ楽しく新しい第二の人生を後1年…」
処置後の一言は部長が告げた。
対象は暫く意識がこの世界に帰ってこないのだから、別に言わなくてもいいのに…私もレンも気づけば言っている処置後の一言。
私は手帳を仕舞って部長を見る。
彼女は注射器の中身を補充すると、私の方を見て首を傾げた。
「随分と手慣れてるようね」
そう言った彼女に、私は何も返さない。
部長は小さく首を左右に振ると次の処置対象の元へと歩き出した。
「……」
表情も変えずに付いて行く。
「!」
部長の後に付いて行こうとした刹那。
私は視界の隅に見覚えのある人の姿を認めた。
「……」
道を挟んだ向かい側。
見覚えのある青い派手な出で立ちをしたスポーツカー越しに私をじっと見ていた。




