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次の朝、朝食を取る前に工場へ顔を出してみると、社長もすでに来ていて、昨日のと同じように電話に向かってなにやら喚いていた。俺と目が合うと片手を上げて、「待っててくれ」のポーズをとった。俺も無言で頷いた。不自然なほどに静まりかえった仕事場の中に、社長の苛立った甲高いだけが響く。普段は温厚な人なんだけどな。やれやれと思いながら明り取り用にそこだけ透き通ったトタンになっている箇所からの鈍い光を見つめていると、「悪魔のK」という単語が聞こえた。ああ、やっぱりそうか、と社長が呻くのが聞こえた。
「悪魔のK」というのは、はじめにこの街で大規模な配線業務を始めた流れ者のフランス人(と言われている)が編み出した独特の配線方で、トラブルが起こることはほとんどないが、一度でも起こると、例えばそれが工場なら閉めるか、電気系統をすべて現在の方式でやり直さざるを得ない。「どこかの」壁の中に毛細血管のように構成された配線が施されていて、どの壁なのかを突き止めるだけでも大変な苦労を要する。見つかった配線がアルファベットのKのような形に収まっているから、「悪魔のK」。これがイカレたせいで廃業した工場もある。電気工事業者は、この街の番号から電話がかかると、「どうかKではありませんように」と真剣な願いを込めて神に祈る。考えてみればウチの工場はこの街で二番目に古い建物なのだから、そこに悪魔のKが関わっていることはこうした事態になる前に想像出来ていてしかるべきだった。だけど、何十年も順調に動いてきたものが、ある日突然ガラガラと崩れてしまうなんていったい誰に想像出来るだろうか?しかも、様々な技師を呼んで検証してもらったが、結局のところこの「K」がどんな理論を用いて構築されているのか、誰も解き明かすことは出来なかったのだ。まるで都市伝説のようだが、間違いなくそれはこの街にあり、それを編み出した人間が暮らしていた建物もきちんと残っている。いまは誰も住んではいないが。あのフランス人は本当に電気技師だったのだろうか?今となっては何もかも確かめようがないのかもしれない。
「まいったな。」
と電話を切ってから社長が思わずそう漏らした。どうするんです?と俺は聞いた。
「閉めるんですか?」
馬鹿言え、と社長は声を張り上げた。
「三代に渡って続いてきた工場だぞ?俺の代で終わるのは仕方ないにしても、こんなことで閉めてたまるかよ。やるだけやった、お疲れさん。みんなでそう言って、乾杯でもして終わりたいじゃないか。心配するな、多少金を使っても腕利きに来てもらって、Kの痕跡をすっかりなくしてやるさ。」
社長は威勢よくそう言ったが、すぐに難しい表情になった。
「とはいえ、すぐに再開というわけにはいかんだろうな。とりあえず一ヶ月は休業だ。すまんな。休み分は幾らかは保障するようにするよ。一ヵ月後にまた顔を出してくれ。俺はこれから業者の手配をする。それが済んだら帰るよ。おせっかいな神様が無理矢理休暇を与えてくださったのだと思うことにするさ。」
工場が今日も休みだったら手伝って欲しい、とあらかじめリナに言われていたので、バーガーショップに顔を出した。リナは、いつもの席にいた。一ヶ月あぶれることをリナに報告すると、リナは、あたしの車もそれくらいかかりそうなの、と言った。
「明後日取りに来てくれるの。とりあえず今日はまず必要なものをすべてあなたの車に移さなくちゃ。今日はそれも手伝ってくれるかしら?」
いいよ、と俺は言った。
「だけどその前に、朝飯食ってもいいかな?」
「もちろん。」
今日は俺がリナの席に座り、簡単な打ち合わせをしながら食った。
それから俺は車を取りに行って、リナはその間に歩いて駐車場に行った。俺が着くころには、必要なものはだいたい出してあった。幸いなことに、俺の車でもどうにかなるくらいの分量だった。全部乗せられなければ俺の部屋にでも置けばいいかと思っていたが。とにかく、さっさと積み込んで、車をスタートさせた。今日は、この街の何軒かの建物を訪ねたあと、おなじみのショッピングモールの事務局を訪ねるらしい。
「その事務局には車マニアは居るか?」
「いたらとっくにあなたの車なんて名物になってるんじゃないの?」
それもそうか。
相変わらず太陽は乱暴にあたりを炙っていたが、いつの間にかほんの少し風が変わった気がした。秋がどこかで夏に取って代わろうと目を光らせている。俺は以前から疑問に思っていたことをリナに聞いた。
「なあ、どこかがこの街の一部を買い取ろうとしてるのか?」
ノーコメント、と、リナはクールに返した。
「答えられないわ。それを話したら私は失格者よ。」
俺は君の仕事のため動力と労力を提供してる、と俺は言ってみた。
「いわば今は同僚みたいなもんだ、それでもか?」
リナの表情が固くなった。
「話せないわ。」
それに、あなたはそんな駆け引きをするような人じゃないはず、とリナは続けた。まあね、と俺は答えた。
そりゃそうだ、同僚だからって話せるってもんでもないだろうしな。




