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その夜は二人で温めるだけのピザを食べて、コーヒーを飲んだ。私が休みの時には、美味しい手料理を食べさせてあげる、とリナが言い、楽しみだ、と俺は笑って見せた。そして俺は、ここに来るまでに浮かんだある質問を、リナにしてみた。
「なあ、お前、俺に最初に声をかける前に、あのトライアンフに乗ってる俺をどこかで見たんだろう。」
さあ、どうかしら、とリナはとぼけて見せたが、少し耳が赤くなっていた。嘘の下手な弁護士だ、と俺は思った。食事をすると眠くなった。リナも疲れているようだった。俺はシャワーを浴びて眠ることにした。リナはその間にメイクを落として、寝室へ引っ込んだ。シャワーから出ると、リビングの電気は落とされていて、床のナイトライトだけがぼんやりと足元を照らしていた。誰かと暮らしを共にする。爺さんと暮らしたガキのころの僅かな時間を別にすれば、それは俺には初めての経験だった。これからどんなことが始まるんだろう、目の前に広がる果てしの無い未知に、俺は立ち竦んだ。ほんの一瞬、逃げ出したい衝動に駆られた。落ち着けよ、と俺は自分に言い聞かせた。いまあれこれ考えたって、なにがどうなるわけでもないだろう。自分の部屋に行って歯ブラシと歯磨きのチューブを持ってきて、洗面に置いた。明日どこにしまえばいいかリナに聞こう、と思いながら。そして歯を磨いた。洗面の鏡は大きく、ライトがついていて、申し分なかった。年甲斐も無く浮かれた男がそこには一人居た。
その夜は余り寝付けなかった。
翌朝、目を覚ますと、窓の向こうには遥か離れた稜線が見えた。朝日はリビングの方から上っているらしく、窓の片方だけがやたらと煌いていた。よく晴れているようだ。ベッドの上で背伸びをして、首を何度か回した。昨日あれだけの距離をドライブしてきたにしては、頭は冴えていて、筋肉は柔軟だった。俺は立ち上がり、リビングに通じるドアを開けた。巨大な窓から、レースのカーテンによって調節された朝が穏やかに室内を照らし、その明かりの中にリナが居た。コーヒー・サイフォンが蒸気を吹き上げ、トースターからはパンが焼ける香ばしい匂いがした。俺と目が合うと、おはよう、と言ってリナは笑った。俺もそうした。それから洗面で顔を洗い、食卓に着いた。バターをたっぷりと塗ったトーストに齧りついたとき、頭の中を一筋の強い光が駆け抜けた。
化石の街で見つけた太陽の匂いが、導いた一日の始まりだった。
【了】
2013年から2014年にかけて、mixiで毎日更新連載という形でコツコツと書きました。無理なく、少しずつ書くという書き方は性に合っているらしく、これ以来あまり根を詰めて書くことが無くなりました。お読みくださりありがとうございます。




