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駅の裏のレストランで夕食を食った。皿が片付くと、街を出てゆく前に鍵を預けていきなさいよ、とユイが言った。
「あたしがあなたの家と工場、きちんと掃除しといてあげる。いつ帰ってきてもいいようにね。」
俺は判った、と言った。そのあとは、たわいない話をして、おやすみと言って別れた。
家に帰って、リナに電話した。明日中に荷造りをしてここを出るから、夜にはそっちに着くと伝えた。
「終わったのね。」
「ああ、終わった。」
「おめでとう。」
「ありがとう。」
翌朝、目を覚ましてシャワーを浴びた。シャワーを浴びながら鼻歌を歌った。そんなことをしたのは初めてだった。オーティス・レディングの有名すぎるあの歌だ。服を着て、さしあたって必要なものをすべてまとめた。それでも、ボストンバッグひとつで足りた。後はすべてどうでもいいものばかりだった。それが俺の過去だった。俺はひとつ小さなため息をついた。バッグを車に置き、バーガーショップを訪ねてユイに家と工場の鍵を預けた。ユイはにっこりと笑ってそれを受け取った。
「朝ごはんはどうする?」
俺は肩をすくめた。
「まだ腹減ってないんだ。」
だと思った、とユイは言った。
「元気でね。」
「ああ。」
「落ち着いたら、リナちゃん連れておいでよ。」
「ああ。」
じゃあ、と俺は言った。ユイは頷いた。
子守唄のように晴れた空の下でトライアンフのエンジンが振動し始めた瞬間、感傷的な気持ちになった。何かが始まるのだという気持ちが一瞬どこかへ居なくなり、何もかも終わったのだという気持ちが頭の中で渦を巻いた。くそ、と俺は口に出しながらアクセルをゆっくりと踏んだ。街を出て、直線道路に乗るとそんな感傷は静かにどこかへ消えていった。
昨夜の電話でリナは、「ただの休暇じゃない」という言葉の意味を教えてくれた。独立して、自分の事務所を持つのだそうだ。大きな事務所に居て、誰かの下で働いていると、納得出来ない仕事をしなければならない。それが嫌で何もかも自分でやることにした、と。どうなってるんだ、と車を走らせながら俺は思った。何もかもが終わり、何もかもが新しく始まろうとしている。誰もが生きている間、何かにケリをつけ、新しいものに手を着ける。そこになにがあるのか、想像も出来ないようなものに。そこには怖れがあり、ワクワクするような興奮もある。黙って飯を食っているだけの人生などに満足するやつなんか居ない。みんなどこかで自分の上がるべき舞台を探しながら生きている。ハタから見れば俺は、出遅れた人間かもしれない。でも俺にはいままで黙り続けた分だけの動くべき理由があるし、生きるべき理由があった。俺は友達の気持ちがようやく判った。新しいステージに憧れて、死んでいった友達。ようやく判ったよ、と俺は彼らに話しかけた。
「でも俺は死にしない。なぜならいままでずっと死んでたんだからな。」
そう言ってしばらくの間、笑いながら運転した。すれ違う車のドライバーが、不思議そうな顔で俺のことを見ていた。笑いが落ち着いたところでドライブ・インに入ってその日最初の食事をした。カウンター席でストゥールに腰をかけてハンバーガーを食っていると、杖を突いた婆さんが俺の後ろで何かに躓いて転んだ。俺は椅子を降りて彼女を起こしてやった。すみません、と彼女は恐縮した。俺は笑って、杖を手渡してやった。彼女は一礼して、駐車場で自分を待っている爺さんのところへゆっくりと歩んでいった。
そこからは休まなかった。アクセルを踏み込み、人のいい警官なら見逃してくれるかもしれない、という程度のスピードで、新しい住処を目指して走り続けた。どれだけ走っても疲れは感じなかった。いつまでも走れそうだった。三ヶ月ベッドを貸してもらった病院のある街を過ぎ、トライアンフから転げ落ちた道端を通り過ぎ、悪夢に震えたモーテルを通り過ぎた。その頃には日が傾き始めた。それがすっかりと暮れ、ろくに外灯もない道をひたすら走り続けた。カーラジオからはジョン・コルトレーンが流れていた。やがてリナの街の明かりが見えた。それは闇の中にあたたかく浮かび上がり、まるで蜃気楼のように見えた。ただいま、と俺は言った。ようこそ、と街が答えた。
マンションの駐車場の、リナのプジョーの隣に車を入れ、荷物を持ってロビーに入った。インターフォンを鳴らして、リナに着いたよ、と伝えた。リナは何も言わずに自動ドアのロックを解除した。エレベーターに乗って12階に上がり、5号室のベルを鳴らすと、リナがドアを開けた。いらっしゃい、と彼女は照れくさそうに言った。俺は、ああ、と頷いた。こっち、とリナは俺を空き部屋に案内した。それまで俺が暮らしていたよりもずっと広い部屋だった。そこにひとつだけ置かれたボストンバッグは、何かの冗談みたいに見えた。爆弾テロみたいだ、と俺がそれを指差して言うと、リナはあっはは、と笑った。




