30
目を閉じて、ほんの少しじっとしていただけで気分は良くなった。俺は立ち上がった。隣に座っていたユイも俺に続いた。
「大丈夫だ。」
「本当に?」
ああ、と俺はユイに笑いかけた。
「いろんなことが次々に起こって、オーバーヒートしたんだ。すべてが終わったから、冷ませばいいだけだった。」
ユイは笑った。
「終わったの?」
「ああ。」
「おめでとう。」
「ありがとう。」
ユイは本当に嬉しそうな顔で笑った。彼女のそんな笑顔を見るのはずいぶん久しぶりだった。あれは確か学生の頃のことだ。
「でも、今日はまだ終わっていないわよ。これからどこかへ連れて行ってよ。」
「いいとも。」
俺は先に立って歩き出した。ユイは後から着いて来た。俺は自分がどこへ行くべきか判っていたし、ユイもたぶんそうだった。急がず、ゆっくりと歩いた。今となってはもう、すべてが思い出の中の街だった。懐かしいな、と口に出しそうになったが、やめた。その話は、もう少し後にしたかった。俺は初めて両の目を見開いて世界を眺めていた。いつかまたここに帰ってくることがあるだろうか、と考えた。あるさ。時々は帰ってくればいい。そして、こんな風に歩けばいい。家だって、工場だって手放すわけじゃない。それは俺が持っていなければならないものだ。そんなことを考えているうちに、目的地に着いた。俺は鍵を出して、通用口の扉を開けた。思えばここもずいぶん久しぶりだ。ユイは黙って着いて来た。思えばずっと黙っていた。俺が何を考えているのか、きっと勘付いているはずだ。俺はただの散歩のように歩き、工場を突っ切り、事務所に入った。もうむっとするような熱気は無かった。埃臭い空気が溜まっていただけだった。窓を開け、ハンディクリーナーをいつもより念を入れてあちこちにかけた。ユイは楽しそうに入口でそんな俺を眺めていた。掃除が済むと、ユイを招き入れて、座らせた。この前リナが座った席だ。
「コーヒー飲むかい。」
ユイは黙って頷いた。俺はケトルを洗い、水を入れてコンロにかけた。ミルクも砂糖もひとつずつ、とユイが言った。俺は二人分のカップを用意し、スティックシュガーとポーション・ミルクをひとつずつ出した。沸いた湯をカップに注いで、スプーンで混ぜてコーヒーを溶かした。そしてそれをそれぞれの机に置いた。ありがとう、とユイはあの笑顔のままで言った。少しの間俺たちは黙ってそれを飲んだ。
「出て行くのね?」
ユイは、突然そう尋ねた。ああ、と俺は頷いた。うん、とユイは答えて、俯いた。
「あたしねえ、あんたはこの街でいつか駄目になっちゃうと思ってたの。」
顔を上げたユイは、そんな風に話し始めた。
「だから、そうなったときは、あたしがあんたの世話をしてあげようって思ってたの。どちらかが死ぬまで、ずっと。」
驚いた、と俺は言った。そんな言葉じゃ足りないほど驚いていた。ふふ、とユイは笑った。
「だからちょっと、見くびっていたのかもね、あんたのこと。ずっと死人みたいに生きるんだって思ってたもの。」
俺だってそう思ってた、と俺は言った。
「運が良かったんだ。」
違う、と、ユイは首を横に振った。
「あんたずっと待ってたのよ、リナちゃんがこの街に来るのを。覚えてる?あんたが一度だけお付き合いした女の子。転校してきて、転校していった子。」
覚えてる、と俺は頷いた。でも顔も名前も思い出せなかった。
「あのときにあたしには判ったの。あんたはどこかでこの街を出て行きたがってるんだって。あんたはこの街の誰にも興味を抱かなかったもの。あたし子供の頃からあんたのこと好きだったんだよ。知らなかったでしょう。」
すまん、と俺は詫びた。そんなこと全然判らなかった。
「いいのよ、こっちとしても判らせる気なんて無かったから。そのことはもうどうでもいいことなの。でもさ、出て行くんなら一回言っとこうかなって。」
俺は何も言えず、頷いた。ユイは楽しそうに笑った。そしてユイは、良かったね、と言った。ああ、と俺は頷いた。俺にとっての終わりは、ユイにとっての終わりでもあったのだ。
それから俺たちはもう話すことも無くなり、黙って寄り添い、窓の外の、この街の果てを眺めていた。夕焼けが始まり、少し肌寒さを感じるまで、そうしてこの街の果てを眺めていた。
爺さんの工場を後にして、ブラブラと歩いた。俺は腹が減ったなと思い、ユイがお腹空いた、と言った。
「お昼、コーヒーだけだったじゃない。なにか奢ってよ。」
俺はトライアンフに乗ってショッピングモールに行こうかと言ったが、ユイは首を横に振った。
「あんなピカピカのトライアンフ転がすあんたなんか見たくないわよ。あたしにとってのあんたは、くらぁい目をしてドアに穴の開いたトライアンフに乗ってる人なの。そんなあたしに小奇麗なあんたなんか見せないでよ。」
俺は苦笑した。
「じゃあ、行くところはひとつだ。」




