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レストランを出て、自分の家に向かって歩いた。玄関の鍵を開けるときには、血が冷えて痺れが走るような緊張を覚えたが、中に入ってしまうとその緊張は消えた。もう同じ家ではないのだ。確かに俺の両親はここで死んでいるが、その痕跡があったとしても、もうすべて土の下だ。最初にそう感じられたことは幸いだった。長いドライブで疲れていたことも良かった。シャワーを浴びてベッドに横になると、あっという間に眠りに落ちていた。夢などまるで見なかった。
翌朝早くに目を覚まし、冷蔵庫に残っていたレトルトのスープを飲み、一息ついて食器を洗うと、ユイが来るまでもうやることはなかった。シャワーを浴び、服を着替えて、軽く屈伸運動をしてみた。脚に違和感はなかった。いい調子だ、と俺は思った。インスタントのコーヒーを入れて飲んでいると、ユイがやってきた。
「行きましょうか。」
「警察署の前に工場に寄りたいんだが。」
「いいわよ。朝ごはんは食べた?」
「食ったよ。」
社長は工場に居た。俺を見つけると向こうから駆け寄ってきた。そして、まるで得意先の相手にするみたいに俺に頭を下げた。
「すまん。やはり無理だった。どうにもならなかった。数年前ならまだ何とかなったかもしれない。だけど、いまとなってはもう、無理だった。どうやりくりしてもイチからやり直すだけのメリットがないんだ。」
覚悟はしてました、と俺は言った。すまん、と社長はもう一度言った。じゃあ、と俺が去ろうとすると、待っててくれ、と言って社長は慌てて工場の中へ駆け込んでいった。数分ほど待っていると、封筒を手に帰ってきた。
「退職金だ。他のみんなにはもう渡してある。お前は本当によくやってくれた。こんな形で渡したくは無かった。でも、これも運命だ。いままでありがとうな。」
こちらこそ、と俺は言って手を差し出した。社長は両手でそれを握り、俺もそうした。元気で、と言葉を交わして俺たちは別れた。ユイは少し離れたところで、こちらを見ていない振りをしていた。
それから俺たちは警察署に出向いた。受付の若い警官に名前を告げて、両親の事件の記録を見たいんだが、と申し出た。受付の警官は頷いて、少しお待ちください、と言い、内線電話で誰かを呼び出した。奥のドアから太った男が現れた。ユイの話に出てきた警部だった。警部というより保安官という呼び方が似合いそうな、太った男だった。やあ、と彼は手を差し出した。俺はその手を握り返した。
「君がシチか。大きくなったもんだな。」
俺は肩をすくめた。警部はにやりと笑った。そして、ついて来い、というゼスチャーをして、薄暗い廊下の奥にある、閲覧室、という札のかかった部屋へと案内した。ドアをくぐったところで、待ってろと言い残して棚に詰め込まれた膨大なファイルの中から、俺の両親に関する記録を引っ張り出して机の上に置いた。
「さあ、読んでくれ。そんなに詳しい記録じゃない。現場写真と、概要があるだけの記録だ。」
俺はファイルが置かれた机に腰を下ろし、ゆっくりと開いた。長年閉じられたままの本によくある、湿った埃の匂いがした。そこに書かれてあったことは、俺がこの目で見たと確信していることとほとんど違いは無かった。現場写真に残された部屋は、俺が夢で見たあの部屋だった。母親が横たわっていた場所も、父親が首を吊った場所も、同じだった。二人の死体写真も見た。激しい点滅の中で俺に笑いかけていた、あの顔だった。充分な記録だった。俺はファイルを閉じた。そして両手で顔を拭った。長い間身体の中に居座っていた黒い黒い霧が、風に流れるように溶けていくのが判った。すべてが終わったんだ。俺は涙を流した。警部とユイはドアの前で、何も言わずにただ俺を待っていてくれた。
俺が落ち着くのを待って、警部は俺たちを警察署の外まで送ってくれた。
「君の両親の事件を担当した刑事は、私の同僚だったんだ。彼は君がすべてを見ていたと確信していたよ。それがなぜかということまでは私には判らんがね。彼は、この事件を知っている人間すべてにこう言っていた。あの子はきっといつかこの事件のことを知りたがるから、もしもその時が来たら記録を見せてやってくれってね。」
その刑事はどうして死んだのか、と俺は聞いた。癌だったんだ、と警部は答えた。
「彼は自分の病気を隠して働いていた。君の事件を担当したあとで、隠せなくなって、退職したんだ。本当なら、自分で君が来るのを待ちたかっただろうな。」
警部は顔をしかめて首を横に振った。彼のことを思い出したのだろう。
「君がこうして来てくれて私も嬉しかった。」
俺たちは顔を合わせた時よりもう少し親密な握手をして別れた。警察署のそばにある公園で、少し休みたいと言って俺はベンチに座った。顔色が悪いわ、とユイが言った。少し休めばよくなる、と俺は言った。
これが最後の不調になるだろう、穏やかな空を見上げながらそう思った。




