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ギダの言った通り、その後ささやかなざわめきは時々あったが、自分を見失ってしまうような激しい混乱は一度としてなかった。リナやミナが居れば言葉を交し合って気持ちを紛らわすことが出来たし、誰も居ない一人の真夜中でも少しの間枕に顔を押し付けて耐えていれば良かった。そうやって俺は、少しずつ自分の状態を認識し、安心していった。そんな心のざわめきをよそに、脚の方は順調過ぎるくらいのペースで回復し、それはギダがちょっと驚いた顔をするほどの勢いだった。
「君ぐらいの年齢でこの回復力は脅威だよ。」
成長期だからな、と俺は澄ました顔をして言った。あっはっは、とギダは楽しげに笑った。彼の笑い声をその日初めて聞いた。
リナはほぼ半日は病室に居て、あれこれと世話を焼いてくれた。俺が眠っているときは本を読んでいたり、仕事の資料かなにかを整理したりしていた。必要以上に俺に関わろうとはしなかったので、俺も彼女に対してあれこれ気を遣わずに済んだ。そんな風にいくつかの晴天と曇天、数日の雨の日を通り過ぎたある日、ギダが、あと二週間だ、と言って微笑んだ。
「あと二週間すれば、君はピカピカの車に乗って家へ帰ることが出来るよ。」
ふう、と俺は息を吐いた。リナが俺を見て、嬉しそうに笑った。
それから数日たったある日のことだ。リナが、修理工場のモリの話をし始めた。
「あの人、本気であなたに来て欲しがってるわよ。」
「そうなのか?」
「ええ。あたしがあなたの車のことを聞きに行ったとき、何度も何度も言伝を頼まれたもの。俺のことを忘れるなって。」
俺は笑った。無駄にドラマティックな台詞だ。
「あの人、滅多に人のこと気に入ったりしないのよ。お客さんとかは別だけど。よその工場から出来る人を引っこ抜いては、望むラインに足りなかったとかで放り出したりしてるんだから。で、それをあたしに愚痴るのよ。おかしいでしょ。」
「何で君に愚痴るんだ?」
「あたしのプジョー、可能な限り月一でメンテに持っていくようにしてるのよ。もういつ動かなくなるか判らないんだもの。」
常連なのよ、とリナは笑った。
「人の仕事が気に入らないものだから、自分がなるべくやっちゃうのよね。従業員は何人か居るけど、彼らが任されるのは準備とか仕上げばかりよ。それが一番気が楽なんだって。だから、本当に仕事を任せられる人が出てこない限り、あの人身体が休まることが無いのよ。一番早く来て、一番遅くまで車にもぐってるんだから。」
すごいな、と俺は言った。
「その真剣さ、見習いたいものだ。」
「見習ってみれば?あなたの工場、潰れるかもしれないんでしょ?」
そうだな、と俺は深く考えずに彼女の言葉に乗っかった。
「正直言って、もうあの家に住む気しないしな。」
そうしようよ、とリナの声が弾んだ。
「部屋なら、あたしの部屋貸してあげるから。余ってるのよ。」
リナの意図が読めず、俺はぽかんとした。リナはあ、という顔をしてちょっと身を引いた。頬が赤らんでるように見えた。
「いやその、昔友達と住んでたから、部屋、たくさんあるのよ。ウチ…。」
友達ってあの子か、と俺は聞いた。
「ホテルのフロントの。ミユとか言ったっけ。」
そう、とリナは頷いた。
「その頃は私も下っ端だったから、そんなに稼げなくて。ミユとルームシェアしてたの。でも、私が稼げるようになっちゃったから。ミユはあの仕事が好きなんだけど、お給料はあんまり良くないのよね。だから、なにかあると私の方が負担することが増えちゃって。私はそれでも別に良かったんだけど、彼女の方がそういうのは嫌だって言ってね。友達としてフェアじゃない、って…なに笑ってるの?」
いや、と俺は変な意味じゃない、というふうに手を振って見せた。
「お前の友達らしいな、と思ってさ。頑固だ。」
あ~ら、とリナは立ち上がって両手を腰につける。
「あなた、人のこと言えないでしょ。」
俺は、降参のポーズをした。リナは勝ち誇って、座り直した。空気が変わって、変な間が出来た。
「それで、どうするの?」
「どうって?」
「街を出て、モリさんのとこで働くの?」
俺は少し真面目に考えてみた。そして、悪くないなと思った。そんなにいろんなことが出来る性分じゃないし、車をあれこれと弄るのは楽しいし、自分を買ってくれる人間がいるんなら、試してみない手はないだろう。それに、家のこともある。確かに、もうあの家に住むことは出来ないだろう。それはきっと、俺の精神にいい影響を及ぼさないだろう。そのことを考えるだけで、俺は血が少し冷えるのを感じた。そうだな、と俺は言った。
「でもとにかく一度あの街に帰るよ。確かめなきゃいけないことが山ほどあるからな。それが済んだらそっちに行って、部屋探しから始めるかな。」
いや、だから、とリナは慌てた。
「部屋なら、貸してあげるってば。部屋代とかそういうのは、収入に応じて考えてあげるから。」
「しかし…」
もう、判んないかなぁ、と、リナは立ち上がって背を向け、俯いて髪を少し掻いた。そして、向き直り俺に襲い掛かるように、ベッドに両手を置いた。
「あなたと一緒に居たいって言ってるのよ、あたし。」




