25
俺は、自分の家に居た。今住んでる家じゃない。生まれた時に同じ場所にあった家のことだ。夜の始まる頃なのか、それとも朝の少し前の頃なのか、家の中は薄暗かった。家具や食器など、生活の匂いを漂わせるものは何も無かった。キッチンのシンクや、浴室のバスタブなどもすべて取り払われていて、壁とドアと屋根と床だけの、構造だけを残した状態だった。俺はキッチンであった場所に居た。一瞬、外に逃げ出そうとしたが、窓の外に景色が存在しないことを見て、出るのをやめた。外に出ても何も無い。何も存在しない。そのことが判った。きっと、この家を出るためのドアはすべて、ドアの形をしているだけのなにか別のものだ。ものが無いのと同じように、誰の姿も見当たらなかった。俺が立てるもの以外には、音も無かった。俺はリビングに行くことにした。間取りの記憶など無かったが、開け放たれたドアからすべての部屋が見えた。リビングにも何も無かった。テレビも、ソファーも、ベビーベッドも。たぶんそうだろうと思っていたから、別に驚かなかった。リビングの床に這いつくばって、母親の血を探した。でもそこには年月を経過したフローリングがあるだけだった。そこを離れ、大きな梁の下に移動した。梁にロープを引っ掛けた痕などは無かったし、床に父親が垂れ流した体液も無かった。俺は鼻を鳴らし、あたりのにおいを嗅いでみた。何も感じなかった。ベビーベッドがあった辺りに寝転んで、天井を見上げてみた。色の褪せたベージュのクロスがあるだけだった。しばらくそのままじっとしていると、薄闇が本当の闇へと姿を変え始めた。ああ、夜が来るのか、と俺は思った。あたりがだんだん見えなくなり、梁が霞み、自分の手元すらわからないほどの闇が訪れた。これは夜じゃない、そう思った。闇に乗じて誰かが俺をさらいに来るかもしれない、俺はそう思って緊張した。でも何も起こらなかった。目を閉じ、耳を澄ました。自分の呼吸しか聞こえなかった。何も起こらないのだろうか?数分そうしてじっとしていただろうか。今度は唐突に明るくなり始めた。カーテンの無い窓から、強い太陽の光が差し込み、空っぽの家の中を照らした。朝だ、と俺は思った。だが、すぐにそれは朝ではないと判った。数分前の闇が夜ではないと判ったのと同じように。それはさっきよりも早く闇と入れ替わった。その変化には何も感じられなかった。悪意も、善意も、示唆も。ただただ少しずつ速度を増しながら、闇と光が家の中を行ったり来たりした。最後には点滅のようにチカチカと繰り返され、俺はその中に異物のように存在していた。止めろよ、と俺は言った。止めてくれよ。でもそれは止まなかった。ずっと、例えば俺がここで命を絶たない限り、点滅し続けるように思えた。止めろ、と、俺は叫び続けた。視覚がおかしくなり、点滅の中になにかが見え隠れした。俺はそれがなんなのか見極めようとした。じっと目を凝らしているとそれは次第に輪郭を現してきた。ちくしょう、と俺は思った。顔がぼこぼこに膨れ上がった母親と、だらりと舌を出して白目をむいた父親が、笑顔で俺を見ていた。
悲鳴を上げながら目を覚ました。またベッドに拘束されていた。誰かが手を握っていた。関節が痛むぐらい強く。リナだった。俺はわけが判らぬまま彼女を見つめていたが、激しく咽込み、嘔吐した。リナが吐いたものを片付け、俺の顔を拭いてくれた。前と同じように右腕だけは動いたので、それで自分の顔を拭った。夢を見ながら泣いていたらしかった。喉には痛みがあった。叫んでいたのかもしれない。息が苦しかった。リナがナースコールを押した。ギダとミナが連れ立ってやって来て、全員が俺の状態を注意深く見下ろす頃には呼吸は落ち着いていた。俺は混乱したまま彼らの視線を受け止めて、どうなってるんだ、と聞いた。
「三日前の夜、君は錯乱状態に陥った。私は男の看護師を何人か連れて君を押さえ、鎮静剤を打ってベッドに拘束した。そのあとも君は数時間おきに泣いたり叫んだりした。点滴の間だけは右腕も固定させてもらった。」
ギダが昨日のテレビショーについて話すみたいな調子で、そう答えた。俺は自分のことを話さなければならないと思った。
「夢を見たんだ。俺の父親が母親を殴り殺す夢で、それは現実に起こったことだ。俺は夢の中で彼らを止めようとした。でも止められなかった。俺は赤ん坊で、ベビーベッドに横になっていたからだ。両腕をばたばたさせるのが関の山だった。父親が母親を殴り殺した瞬間、俺は無理矢理目を覚ました。そのあと、父親が俺の目の前で首を吊って死ぬんだ。そのシーンは見たくなかった。錯乱したのはたぶんそのときだ。」
全員が黙って俺の話を聞いていた。
「そのあと、俺はずっと、その家の中に居たんだ、誰も居ない、何も無い家の中に…朝と夜が…いや、それに似ているけど少し違う、強い闇と強い光が、何度も何度も交互にやって来て…。」
そこまで話したとき俺は自分が涙を流しているのに気付いた。拭いてくれ、と俺はリナに頼んだ。リナは母親のようにそれを拭いてくれた。




