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リナは、来られる時はだいたい午後早くやってきて、用事があればそれをこなし、なければ少しの間無駄話をして帰っていった。あんまり長く居座ることはしなかったし、顔だけ出してそそくさと帰るということもしなかった。どうやら、リナがその日その日の俺の状態を納得するだけの時間というものがあるらしかった(本人がそれを知ってるかどうかは判らないが)。そうした日々が続くうち、俺の基本的な生活サイクルの中に、ささやかな変化が生まれた。例えば、朝目が覚めたときに、今日はよく眠れたとか、あまりよく眠れなかったとか、いい夢を見たとか、悪い夢を見たとか、そういうことに一喜一憂するようになった。差し出される食事に好みのものがあればそれを嬉しいと思い、嫌いなものがあればがっかりしたりした。飯のあとにはだいたいうとうとして、こういう時間は結構幸せなものだな、などと考えたりした。そういう変化をある夜俺はミナに話してみた。
「こういうのって、普通のことなのか?」
そうよ、とミナは微笑んだ。
「普通のこと、そしてすごく幸せなこと。」
彼女はそう言って微笑んだ。そして、ちょっと真面目な顔になって、こんなことを言った。
「そのひとつひとつの現象に対する自分の感情の積み重ねを、人生というのよ。そばにあるもののことや、そばにいる人のことを、しっかりと見つめて、受け止めるの。そうしなければ、人はいろいろなものを見落としてしまうわ。そうなると悲劇よ。なくしたものから学ぶことしか出来なくなるわ。」
そしてミナは、恥かしそうに微笑んだ。
「あたしみたいな小娘がこんなこと言っても、説得力ないかもしれないけど。」
いや、と俺は言った。
「とても参考になったよ、ありがとう。」
ミナはそれを聞いて軽く会釈したあと、こんなことを言った。
「あなた時々、教授みたいな喋りかたするわね。」
俺は困惑して目をパチパチさせた。面白い人、とミナは言った。よく言われる、と俺は答えた。さて、とミナは背伸びをした。
「消灯時間よ。いい夢見られるといいわね。おやすみ。」
部屋が暗くなって一人になると、俺はミナの言ったことを反芻した。ひとつひとつの現象に対する自分の感情の積み重ねか。その言葉は俺の中にあるなにかに深く突き刺さった。真言のようだった。彼女がどこかの新興宗教の教祖だったら、思わず入信してしまうかもしれない、と思えるほどの。俺の人生は初めからずっと麻痺していた。本当の意味で笑ったことがなかったし、悲しんだこともなかった。怒りに震えたこともなかった。得るものも失うものもなく、あてがわれたものを受け取り、求められるままにこなすことで、時間を消化していた。毎日とは変化しないものだったし、人生とは塗りつぶされていくカレンダーのようなものだった。そしてそんな人生に自覚的でありながら、自分にとってはそれが人生というものなのだと信じて疑わなかった。不幸だとも幸せだとも思わなかった。ただ、そういうものだと思って受け入れていた。俺はたまらなく苦しくなった。気付くと涙を流していた。そして、悪夢が始まった。俺は赤ん坊になってベビーベッドに横たわっていた。リビングの方で激しい音がして、父親が母親に馬乗りになり、握り拳を存分に浴びせていた。重く鈍い音が響いて、父親が腕を振り上げるたびに血飛沫が跳ねた。これは夢だ、と俺は思った。俺は、父親を止めようと思った。だが、ふたつの手はミルクを欲しがるみたいに宙を泳ぐばかりで、それ以上どうすることも出来なかった。父親はまるで殴られているみたいな悲鳴を上げ続けていた。どうして誰も来てくれないんだろう、と俺は思った。こんなにひどい音がしているのに。もしかした真夜中なのかもしれない、みんな疲れきって、ベッドに横になっているのだ。昔はこの街も景気が良くて、みんな懸命に働いてたって聞いたことがあった。駄目だ、止められない。母さんは死ぬ。父さんも死ぬ。母さんが動かなくなった。父さんがリビングを出て行った。俺は夢をむしりとるように目を覚ました。父親のように喚いていた。そこらの、手に取れるものを掴んで壁に投げつけた。窓が割れ、なにかが落ちていった。手に触れるものがなくなると、俺は頭を壁に打ちつけた。額が割れて、血が滴り始めた。誰かが駆けつけて、俺を羽交い絞めにした。俺はもがいたがベッドの上で身体をねじった状態で押さえつけられたので、まったく動けなかった。俺は悲鳴を上げ続け振りほどこうともがいたが、どうにもならなかった。腕にちくりとした感触があり、次第に力が抜けた。そして、意識が夢も見ないようなところへ流れ落ちていった。




