22
それから1ヶ月ほど穏やかな日々が続いた。俺はよく眠り、よく食べ(食事が滅法美味かった)、よく考え、よく休んだ。実に安らかな気持ちだった。これまでこんなにも穏やかな気分で毎日を過ごしたことがあっただろうか、と俺は考えた。化石の街を俯瞰し、自分自身の日常からさえも距離を置き、必要最小限の項目をこなすだけで生きてきたこれまでの人生。自らを変わり者ですと語るようなトライアンフに乗り、簡単なものばかりを口に運ぶ、それが俺という生物だった。今ではそれが幼い頃に受けたショックのせいだと判るが、その上で俺は自分がそうした人生を送ってきたことにどうしようもない寒気を感じた。まるでたちの悪い死体じゃないか…?まるで、禁忌を抱えた村人たちが、外界との接触を避けて自分たちの世界を守り続けている、そんな異聞を一人で演じ続けていたみたいだ、と。俺は深呼吸をした。今はともかく大人しくしていることだ。じっくりと、すべてのレベルをあるべき位置に戻して、それから、ひとつひとつをクリアーしていけばいい。ともかく生きていこうと思った。これまで蓋をしてきた人生というものをしっかりと見つめて、これからのことを決めようと。
ある朝、ミナに連れられて客がやってきた。リナだった。俺はぽかんとした。リナは黙ってつかつかと俺のベッドのそばに歩いてきて、その辺にある椅子を引いてきて腰をかけた。どうしてここが、と俺は尋ねようとしたが、リナがその前に口を開いた。
「仕事が片付いて休暇が取れたから、あなたに連絡したのよ。何度電話しても出ない。バーガーショップの電話を調べてユイさんに聞いてみたら、まだ帰ってきた様子はない。あなたはずいぶん前に帰るって言っていたんだから、これはおかしいと思って、調べたの。考えられる可能性としては事故が適当だったから、修理工場に電話して、トライアンフの色を聞いて、あたしの街からあなたの街へのルートの間にある街の警察や病院へしらみつぶしに電話をかけたわ。すごく時間がかかった。三時間かかってようやくこの病院を突き止めたの。ピカピカのクラシック・カーから川に転がり落ちて、骨折してる男性なら一人居るって。友達かもしれないから、詳しく教えてくれって言って、入院した日にちなんかを教えてもらった。きっとあなただと思った。それからすぐに車に乗ってここへ来たわ。」
リナはそれだけまくし立てて疲れたようにふーっと息をついた。
「どうして教えてくれなかったの?」
俺は正直に話した方がいいと思った。
「君の街を出て、のんびり走った。午後になってあるモーテルにチェックインして、すごく長く眠ったんだ。その眠りの中で夢を見た。俺の父親が母親を殴り殺し、俺が寝てるベビーベッドのそばの梁にロープを結んで、首を吊って死ぬ夢だ。起きた瞬間にただの夢じゃないと判った。自分がそれを見ていたんだと確信した。俺はモーテルを飛び出し、早く街へ帰ろうとして車を飛ばした。トライアンフの調子は上々だった。ハンドルを握りながら、夢で見たシーンを何度も思い返した。それは確実に現実に起こった出来事だった。何度も思い返しているうちに気分が悪くなった。たぶん極度に緊張したんだ。事故を起こさないよう注意して慎重に車を止めて、道端にへたり込んで休もうとした。道を外れると斜面になっていて、俺は脚がもつれて転がり落ちた。そのときに脚を折ったらしい。記憶にはないがね。ここに連れてこられて、ベッドに寝かされるときに暴れたらしい。」
リナは黙って聞いていた。俺になにかが起こったことを理解したのか、目の奥にあった怒りはなくなっていた。
「気持ちを落ち着けて、冷静になるまで、誰にも会いたくなかった。冷静になるまでに1ヶ月かかったんだ。落ち着いたら連絡するつもりだった。君は休暇を取って俺の街に来ると言っていたし、約束をすっぽかすのは趣味じゃないからな。」
これは嘘だった。本当は誰のことも頭に浮かばなかった。自分のことを考えるので手一杯だったのだ。でもそれについては嘘をつくべきだと思った。
「悪かった。」
話しながら俺は、これは少し卑怯だな、と思った。こんな話をされたら、誰も俺を攻めることは出来ないだろう。リナはなんと言うべきか考えていたが、何も思いつかなかった。あと2ヶ月は安静よ、と部屋に入ってきたミナが助け舟を出してくれた。あ、とリナが声を上げた。
「ユイさんに知らせなくちゃ。ちょっと出てくる。」
電話は1階のロビーよ、とミナは言った。ありがとう、とリナは言ってそそくさと廊下に出て行った。
「連絡しておくべき人は居ない、って、言ってたわよね?」
リナの足音が遠くなってから、ミナは咎めるような顔を作って俺にそう言った。俺はそのことをすっかり忘れていた。それ、彼女に言わないでくれよ、と俺は頼んだ。俺の焦りが顔に出ていたのだろう、どうしようかな、と言ってから、ミナは吹き出した。




