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もう一度目覚めたときに、腕しか動かなかった理由が判った。俺は伸縮性のベルトのようなものでベッドに拘束されていた。俺はナースコールを押した。最初に目覚めたときにやってきた看護師が来て、どうしたの?と聞いた。
「トイレに行きたいんだけど…。」
「オムツつけてあるから、そのまま出しちゃってもいいけど…。」
これをほどいてくれ、と俺は懇願した。自分でオムツをはぎ、手渡された薄っぺらいズボンを履こうとして、左脚が膝の下から足首までガチガチにギプスで固められているのに気付いた。俺が困惑していると、看護師が静かに、折れてるのよ、と言った。
「あなたが落ちた川のすぐそばには、増水時に水を逃がすための溝があってね、そこに左脚がふくらはぎのあたりまで突っ込んだみたい。転がってたんでしょうね。外側が支点になって折れてるの。」
そのまま溝の方に落ちなくてよかったわ、と彼女は続けた。
「溝に落ちてたら今でも見つけられてないかもしれないわよ。深くはないけど草まみれで、人一人くらいなら簡単に隠れちゃうから。」
俺は黙って首を横に振った。看護師がベッドの脇の松葉杖を手渡してくれた。
「おしっこしてらっしゃいな。それから先生も交えてお話しましょう。」
小便を済ませて病室に戻ると、フーのギタリストにそっくりな初老の医者が看護師と一緒に俺を待っていた。看護師はシンニード・オコーナーを少しまともにしたような顔をしていたから、熱病患者ならここがグラミー賞の会場かと錯覚するかもしれない。俺はまず、なぜ拘束されていたのか、と尋ねた。君が暴れたからだ、と、医者―ギダ、という名前だ―は答えた。
「立ち入ったことを言うようだが、君はなにかその―自分自身を平常では居られなくさせるような過去を抱えているようだね。」
俺は頷いた。でも、それについては少しずつ改善していこうとしているところだ、と付け加えた。医者は頷いた。言葉の選び方ひとつで、彼は慎重な人間だと言うことが判った。それから、今後のことを話し合った。都会の病院と違ってベッドは余っているので、治るまで居ても構わない、と彼は言った。俺はありがたく受け入れることにした。完治までは3ヵ月ほどということだった。連絡しておくべき人間はいるか、と聞かれて、居ないと答えた。ギダは、黙って頷いた。
「そうだ、君の車は彼女が駐車場まで乗ってきてくれたよ。」
ギダはそう言って看護師―ミナという名前だった―を指差した。ミナは俺を見てにっこり笑った。
「クラシックな、とてもいい車なのね。すごく乗り心地が良かったわ。」
徹底的にメンテしたばかりだったんだ、と俺は答えた。
「そしたら、俺が故障した。」
二人は笑った。それじゃあ、と二人が去ろうとしたとき、俺はあることに気付いて呼び止めた。
「暴れたって話だけど…その、あんたか彼女を、殴ったりとかしたのかな、俺は?」
気にしなくていい、とギダは言った。
「脚のせいで勢いのあるパンチじゃなかった。それに―明らかに意識が混濁してる患者に殴られて、どうこう思うような新米じゃないよ。」
そう言いながら微笑んで見せて、彼は部屋を出た。お大事にね、とミナが言い残して彼に続いた。
二人が去ってから、俺はベッドに仰向けに寝転んだ。逸る気持ちは今でもなくはなかったが、固められた脚を見るとなんとなく落ち着いた。冷静さを失っていたかもしれない。あのまま走っていたら、どこかでもっと深刻な事態になっていたか、街に帰り着いてからなにか起こしていたかもしれない。誰かが、俺の襟首をむんずと掴んで後ろに引っ張ってくれたのだ。それが誰だかは判らなかったので、俺は神に感謝することにした。何日経ったのだろう?壁に張ってあるカレンダーを見た。リナの街を出てから三日経っていた。二日近く眠っていたわけか。窓の外を見た。小さな街に点在する高層建築がいくつか見えた。マンションだろうか、と俺は思った。その後ろには稜線が見えた。それが夕焼けに照らされて、古い特撮映画の山火事のような光景を作っていた。ここは何階だろう?3階か、4階か…3階かな。車の音がまばらに聞こえた。俺は少しノスタルジックな気分になった。ノスタルジー…よく考えてみれば、そんなまっとうなノスタルジーに浸るのは、初めてかもしれなかった。見知らぬ街の病室で、なぜそんな気分になるのかは判らなかったが、その光景には確かに愛すべき見知らぬ過去があった。俺は困惑し、そして楽しくなった。焦ることはない。たぶん俺は、制限時間までにゲートをくぐることだけはかろうじて出来たのだ。脚が治れば、冷静にいろいろなことを確認していけるだろう。これは考えるための時間なのだ。そう思いながら目を閉じた。そのまま夢も見ずに翌日の朝まで眠っていた。




