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リナの街を離れてからは、スピードを落としてのんびりと走った。走れば走るほど、トライアンフの状態が最高なのが身に染みた。すれ違う車がこちらに向ける目線が、今までとはまるで違うものになっていた。これがトライアンフなんだ、と俺は思った。そして、自分でいっぱしの整備をしてきたつもりでいたことを、恥かしく思った。いままでこいつは、足枷をかまされ、呼吸を制限された状態で走り続けていたのだ。いま身体に感じるこいつは、果てしなく回転し、隅々まで呼吸出来る喜びに満ちていた。宿命そのままに生きるものの喜びがそこにはあった。ちくしょう、と俺はまた思った。ものにある命。限界。こいつは俺のものになってから実に長い間、満足な回転を得ることなく生き続けてきたのだ。もっと早くこうしてやればよかった。俺は心地良さと、後ろめたさの両方を感じながら走り続けた。空はどこまでもクリアーに晴れていて、果てしない直線道路を走っていると、どこか人生とは関係のないところに行き着くのではないかという気がした。でもそれは空のせいではなかったし、直線道路のせいでもなかった。人生、宿命。突き抜けるエンジン音がそれを俺に語りかけ続けていた。
ドライブインで昼食を取り、また走り続けたが、太陽が真上から少し傾いた早い午後に、もう今日はこれ以上走れないと感じた。車は上々だったが、俺が故障していた。なにかを考えなければならなかった。そして出来るだけ早く、自分がこの先どんなものを求めて生きるのかを、決める必要があった。俺が足枷をかましていたのはトライアンフだけではなかった、そのことに気がついたのだ。目に付いたモーテルに車を入れて、フロントで一泊分の金を払った。受け取ったキー・ナンバーのついたガレージに車を入れ、エンジンを切った。生まれ変わったトライアンフが目を閉じ、街外れの道路沿いの静寂が訪れた。耳が痛くなるほど静かだった。俺は呆然と車を降り、鍵をかけて、部屋にもぐりこんだ。手と顔を洗い、ベッドに転がった。ベッドからは砂の臭いがした。天井の白いクロスは、過去にこの部屋に滞在したものたちが吐き出したニコチンで変色していた。それは歴史だった。歴史、と俺は思った。俺の年齢は俺の歴史だった。その中にはなにがあるだろう?思えば俺は、これまで求めるということをしたことがなかった。願望や、欲望とは、無縁のところで生きてきた。それは両親のせいかもしれないし、爺さんのせいかもしれない。街のせいかもしれなかったし、俺のせいかもしれなかった。俺は宿命というものを自覚することなくこれまでを生きてきた。でもそれは、俺が人と少し違ったところがあるせいだと思っていた。俺は友達のようには生きられなかった。そこにないものに焦がれ、求め、街を離れていくという行為の中に何があるのかということを、正確には知らないまま生きてきたのだ。なぜなんだ、と俺は思った。そこになにかがあるんだ。そう思いながら眠り込んでいた。
俺は子供になり、ベビーベッドの中で眠っていた。なにか激しい音がして、目を覚ました。俺はその音のするほうを向いた。父さんの背中が見えた。父さんだ、と俺は思った。まだ話しかけることは出来なかった。父さんはしきりに腕を振り上げていた。その腕が下ろされる先に視線を向けていくと、まぶたを腫らし、血塗れになった母さんの顔が見えた。母さん、と俺は思った。父さん、やめて、と俺は言おうとした。だが、やはり何も発することは出来なかった。鈍く、重く、くぐもった音が何度も続いた。俺はその光景から目を離すことが出来ず、ずっと見つめ続けた。やがてもがいていた母さんが動かなくなり、それに気付いた父さんが静かになった。父さんは馬乗りになったまま母さんに顔を近づけ、何度も母さんの名を呼んだ。母さんは一度も答えることはなかった。父さんはしばらくそのまま母さんの顔を見ていたが、やがて立ち上がり、リビングを出た。どこかでなにかを漁っている音がして、やがて父さんが帰ってきた。手に、細いロープを持っていた。父さんは母さんの返り血を浴びた顔で、静かに笑っていた。父さんは俺の寝ているベッドに近付き、俺の名を呼んだ。俺は声を上げることが出来なかった。父さんはにっこりと笑った。そして、椅子をこちらに寄せてきてベッドのそばにある梁にロープを通し、輪を作り、その中に首を突っ込んだ。何事か呟いたけれどそれは聞こえなかった。そして父さんは椅子を蹴り倒し、首だけで梁にぶら下がった。肩がすくみ、電気ショックを受けたように腕が跳ね上がった。父さんは白目をむき、舌を出してしばらく痙攣していたが、やがて力をなくして腕がだらりと落ちた。漏らしたのか、ズボンが変色して悪臭があたりに漂った。父さんは色を無くし、父さんではなくなった。その顔は俺を見下ろし続けていた。誰か、と俺は思った。たすけて、と口に出したかった。でも何も言葉にはならなかった。そのまま父さんを見つめ続けていた。




