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目覚めてはシャワーを浴び、地図を見て行先を決め、ひがな一日どこかの店を覗き込み、気に入ったちょっとしたものを買ったりミユと夕食を共にしたりしているうちに数日が過ぎた。六日目の夜、ホテルの部屋に車が出来上がったとモリから連絡が入った。
「驚くぜ。新品のトライアンフだ。俺が売ってもらいたいくらいだ。」
俺は明日取りに行くと行って電話を切った。
それからしばらくの間はなにか落ち着かなかった。テレビでは何年か前のローリング・ストーンズのツアーの映像が流れていたが、まるで頭に入ってこなかった。歳を感じさせないミック・ジャガーのすっきりとした身体を見ながら、俺はこの数日間のことをじっくりと考えた。明日車を受け取ったら、ここに居る理由はなくなる。俺はこの部屋をチェック・アウトして、もと居た街へ帰るだろう。この街で直した車と、この街で買った服や本をたくさん抱えて。そのあと俺はどうなるのだろうか?工場に出向いて再開はいつかと訪ね、ユイのいるバーガーショップでいつものセットを食い、爺さんの工場で窓の外を眺めるのだろうか。ここに居るとそういった日常がうまく想像出来なかった。きっと今だけのことだ、と俺は思った。向こうに帰れば、むしろここに居たことのほうが奇異に思えるだろう。そして、見たこともない本を売っている本屋や、ミュージック・ショップがどうしても恋しくなったら、またこんな風に出かけるかもしれない。どこに出しても恥かしくないトライアンフに乗って。いいことじゃないか?あの街で淡々と生きてきた俺に、ちょっとした楽しみが出来たということだ。きっと、どこの誰に聞いてもそんな風な結論に行き着くだろう。だけど俺はなにか、ちょっとした不安のようなものを抱えていた。少しの楽しみが出来るということは、それに伴う少しの苦しみもきっと生まれるということだ。俺はそういうことを自分の人生の中で理解していた。振り幅というやつだ。それが俺の脳味噌をどんな風に突っついてくるのか、それは、自分に耐えられる種類の振動なのかという懸念の中に、厄介ごとの発芽があるような気がして仕方がなかった。でももちろん、そんなことを考えていても仕方がなかった。少し散歩しようか、と俺は思った。どこに行こうか、と考えているうちにリナのマンションまで歩いてみようか、と思いついた。明日車を手に入れたらそのまま帰路に着くから、今夜のうちに訪ねておくのもいいかと思ったのだ。いまからそこそこ歩いたとしても、まだ人が眠りにつくような時間じゃない。昼間に訪ねるよりは会える確立も高いだろう。地図を開いて、マンションの位置を確認した。少し遠いけど、歩けない距離じゃない。眠る前のいい運動になるだろう。
マンションに向かう坂道は歩いてみると相当な傾斜だった。ふうふう言いながら辿り着いてロビーでリナの部屋番号を呼び出してみたが、応答はなかった。俺は、明日帰ることになったので今夜のうちに来てみた、という内容のメモを残し、ロビーのポストに入れてマンションを後にした。空振りだったが、夜は少し涼しく心地良かった。遠くのほうで煌いてるネオンが美しかった。暖かいキッチンか、と、俺はリナの言葉を思い出した。俺にはそれはもっと違うものに見えた。でもそれを的確に表現するフレーズはどうしても見つけられなかった。
ホテルに帰って眠りに着いた数時間後、部屋の電話が鳴った。半分眠りながら出てみると、リナだった。今帰ってきたところだ、とリナは弾んだ声で言った。
「あなたのぴかぴかのトライアンフ、見たかったのに。残念だわ。」
まあいいじゃないか、と俺は慰めた。
「もう二度と見られないわけじゃないんだ。」
そうよね、とリナは笑った。
「この街は楽しかった?」
「ああ。たくさん買物をしたよ。」
「なに買ったの。」
「ほとんど本とCDだな。夢のような一週間だった。」
「そしてあの街へ帰るのね。ひとりぼっちの夢を見に。」
そうだな、と俺は答えた。
休暇に入ったら連絡する、と約束してリナは電話を切った。俺は寝直そうとしたが、うまく眠れなかった。ブランケットがツイストロールみたいになるまで寝返りを打っているうちに朝になった。
車を取りに行き、ホテルの正面に止めて荷物を積み込み、チェックアウトした。ロビーにいる人間はまばらで、俺の応対をしてくれたのはミユだった。またお食事ご一緒しましょうね、とミユは微笑んだ。ああ、と俺も笑った。
「リナのことよろしくね、シチさん。」
なんだそれ?と俺は尋ねた。ミユは、ふふんと笑って返事をしなかった。そして俺はホテルをあとにした。
モスグリーンに塗られたトライアンフの調子は上々だった。俺はプロの仕事というものを知った。エンジンの音がまるで違った。低音のうねりはそのままに、天へ抜けるような高音が加わっていた。俺は慎重にアクセルを踏んだ。別れ際のモリの誇らしげな顔が脳裏に浮かんだ。ちくしょう、と俺は思った。街の出口で、一気にアクセルを踏んでみた。氷の上を滑るように車は加速した。




