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最後に、どこかしらに塗料が残っていると思うからその色で塗っておくよ、とモリは言った。任せる、と俺は答えた。それから修理工場を出て、ホテルの方角へブラブラと歩いていると、巨大なデパートを見つけた。15階建てくらいだろうか?隣に、ほぼ同じ高さのタワー・パーキングがあった。中に入ると、1階はドラッグストアになっていた。近くの棚で商品を陳列していた女が、クールな調子でいらっしゃいと言った。エスカレーターのある建物のほぼ中央部分が大胆な吹き抜けになっていて、まるで近代的な城のようだった。エスカレーターに囲まれたレストスペースに案内板があった。洋服は5階にある、ということだった。エスカレーターに乗って五階まで上っていると、少しずつ現実感が希薄になっていく感じがした。俺の街にあるすべての電球を集めても、この建物ほど明るくすることは出来ないだろう。各フロアーの吹き抜けに面した部分には防護用の柵が設けられ、そこにこの建物の中にある様々な店舗の売り文句が書かれた巨大なポスターが貼られていた。これは比喩でもなんでもなく、俺は眩暈がした。この建物の中の時間は、俺が街で感じているそれの倍ぐらいの密度で進んでいる感じがした。洋服屋に辿り着く前に遭難しなけりゃいいがな、と俺は思った。
遭難はしなかったし、捜索隊も出る必要はなかった。丁寧な案内板に導かれて、俺は目的の店に辿り着いた。あれこれと試着をして、デニムを3本と、シャツを5枚、それから同じだけの下着を買った。ありがとう、とショートボブの小柄な女の店員は笑顔で俺に商品を手渡した。ベティ・ブーを縮めて痩せさせたような感じの娘だった。俺は商品を受け取って店を出た。そうすると昼飯の時間だった。考えてみれば昨夜からずっと、まともな食事をしていなかった。レストランは最上階にあるということだった。俺はまたエスカレーターに乗った。10階あたりで吹き抜けを軽く見下ろしてみた。別の種類の眩暈がした。8階あたりにタワー・レコードのロゴが見えた。昼飯が終わったら寄ってみることにしよう。
レストランの客はまだまばらだったので、窓際に席を取った。窓の外に見えるこの街の景色は、とにかく立体的だった。人間が増えるとこんなにも様々な建物が必要になるのだろうか、と俺は思った。注文したパスタの味もろくに覚えてないほど、俺はその街の景色に関心を寄せていた。無数の窓を見上げたり見下ろしていると、そこに人間の蠢きが感じられた。その数だけ人間の蠢きというものがあるのだ。俺は蟻塚を連想した。地下に掘り、上に積み上げ…その地にいる個体数の分だけの高みが出来上がる。技術やイデオロギーの違いこそあれ、築かれるものにそれほどの違いはないのだ。ほとんどを地平のみで暮らしていた俺にとって、その景色は現代社会の象徴であり、脅威だった。だが同時に、言いようのない虚しさのようなものがそこには感じられた。これだけの数がなぜ必要だったのだろうか、これだけの技術や、進化が本当に必要だったのだろうか、と。もしもこれもすべて神のお膳立てなのだとしたら、それはオーバー・プロデュースだという気がした。そしてもちろん、ここでそんなことを考えているのは俺一人なのだということも判っていた。そして俺は、どこかの都会で死んでしまった友人のことを思った。あいつはきっと、目が眩んでしまったんだろう。目が眩んで、ふらふらとよろめいて、固い路上で頭を打って死んでしまったのだ。そう思うと悲しくなった。友人のことではない。俺たちの運命のことを思って悲しくなった。もしもそこに心を許せる誰かがいたら、俺はそいつに抱いてもらいながらすすり泣いたかもしれない。だけど俺は一人で、ここには食事をしに来ただけだった。おまけに店ではビートルズのコンピレーションを流していて、その時流れてきたのは「Don't let me down」だった。おかげで俺は少しの間、ジョン・レノンが大嫌いになった。
タワー・レコードであれこれと物色してみたが、そんな気分だったせいか何も買う気にはならなかった。諦めて店を出て、フロアーをぶらついていると本屋を見つけた。中に入ってあれこれと眺めていると、俺がいつも買う雑誌があった。手に取ってめくってみたが、まるで買う気にはならなかった。こんなつまらない本をなぜ俺は買っているのだろう、と思った。その理由はすぐに判った。あの街で買える本は限られているからだ。俺は本屋のすべての棚を覗いた。女性コーナーの矯正下着の本まで見た。横にいた女が露骨に嫌な顔をした。雑誌、コミック、実用書、この都会の一角のデパートの本屋の中には、俺の知らなかった世界がごまんとあった。そのときの感情をなんと表現していいのか俺には判らない。だけど、真っ先に来た思いについてははっきりと言える。俺は悔しかったのだ。これだけたくさんの未知なる物があったということが。




